「殺人電車」「混雑率300%」を解消せよ! 混乱期の国鉄「今思うとビックリ首都圏改造計画」とは? 70年かかった上野東京ライン
終戦で荒廃した日本の鉄道は戦後、復旧と並行して「復興」を模索し始めます。人口が急増し、輸送力の増強が喫緊の課題となる中で、国有鉄道は東京の鉄道について、どのような問題意識と案を持っていたのでしょうか。
終戦2年で人口倍増、待ったなしの「復興工事」
3年8か月にわたる太平洋戦争、その最後の8か月に行われた本土空襲で終戦時の日本は荒廃していました。鉄道も空襲の被害だけでなく、設備・車両の更新や修繕を後回しにした酷使で輸送力は大きく低下していました。
当時の日本は鉄道以外に陸上交通はなく、多数の船舶が撃沈された海運も機能していなかったため、鉄道は休む間もなく走り続けるしかありません。その頃の鉄道といえば、都心ですらドアや座席がない車両に鈴なりで乗車している有様で、脱線、衝突、火災や転落が頻発する「殺人電車」でした。
国有鉄道は新規工事を中止し、修繕能力の強化に注力。車両の復旧と並行して1946(昭和21)年度下期からようやく新車の導入が本格化し、1948(昭和23)年に入ると座席、蛍光灯の照明、自動ドアを整備した「復興模範電車」が登場し、徐々に正常化していきました。
そんな時代の変わり目、国有鉄道は「復旧」の次を模索し始めます。東京都の人口は終戦から2年で倍増し、ラッシュ時ピーク混雑率は300%を突破。さらなる増加が予想されることから戦前以上に「復興」するための工事が必要になったのです。
国有鉄道がどのような問題意識と案を持っていたのか、1948(昭和23)年頃の業界誌『交通技術』などの記事を参考に見ていきましょう。
特に急ぐ必要があったのは都心の通勤電車の中心、山手線と京浜東北線です。山手線は1925(大正14)年、京浜東北線は1932(昭和7)年から現在と同じ運行形態をとっていますが、当時は田端~田町間の線路は複線分しかなく、両路線は同じ線路を交互に走っていました。
同区間は最短2分30秒間隔の運転のため、山手線、京浜東北線ともに最短5分間隔が限度で、増発の妨げとなっていました。両路線の分離は戦前に構想され、用地は取得済みだったため、これを早急に実現して輸送力を倍増させようというのです。
1949(昭和24)年に発足した日本国有鉄道は同年末から、将来の分離を見込んで東京、有楽町、新橋などのホーム増設工事に着手し、1953(昭和28)年に線路増設と分離を正式決定。1956(昭和31)年11月に分離運転を開始しました。
両路線の共用問題はダイヤだけではありません。1948(昭和23)年当時、山手線は6両編成、京浜東北線は8両編成だったので、定員の少ない山手線車両は乗降に時間がかかり、京浜東北線のダイヤにも影響したのです。そこでホームを延伸し、1949(昭和24)年までに7両化しますが、8両化は1962(昭和37)年まで待たねばなりませんでした。





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