いまも痕跡が見られる! 東京メトロ丸ノ内線に残る池袋「仮駅」の謎

東京メトロ丸ノ内線の池袋駅は開業からしばらくの間、仮設のホームと改札口を使っていました。その名残はいまも見ることができます。それにしても、なぜ最初は「仮の姿」だったのでしょうか。

巨大ターミナルの片隅にある「幻の地下ホーム」

 4社8路線が乗り入れる、都内屈指のターミナルである池袋駅。JR線、東武線、西武線のホームと、それらを串刺しする丸ノ内線、有楽町線、副都心線の地下鉄3路線のホームが格子状に並んでいます。

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丸ノ内線池袋駅の中央通路東改札口は池袋駅東口駅前広場の下に設置されている(2018年4月、枝久保達也撮影)。

 ホームと並行して東西方向に3本、南北方向に4本設置された通路によって、JRと私鉄、地下鉄が相互に乗り換えやすい構造です。新宿や渋谷と比較しても、規模の割に分かりやすい池袋駅の大きな特徴となっています。

 この巨大な池袋の片隅に、いまは使われていない「幻の地下ホーム」があります。

鉄道が作ったまち、池袋

 この地に現在の山手線と埼京線の原型となる日本鉄道品川線(赤羽~品川間)が開通したのは1885(明治18)年のことですが、開通時から駅が設置された新宿と渋谷とは異なり、当初池袋には駅は置かれませんでした。池袋駅が設置されたのは1903(明治36)年、田端と品川線を結ぶ支線である豊島線が開業した時のことでした。

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1903(明治36)年時点の路線図。緑色の点線で示した東京市域を避けるように鉄道建設が進められた(枝久保達也作成)。

 現在の常磐線は、日本鉄道によって1896(明治29)年に田端~水戸間で開業しました。常磐炭田から産出された石炭を載せた貨物列車は田端からいったん赤羽に出て、スイッチバックしてから品川線を経由して東海道線方面に運行されていましたが、より効率的に輸送できるよう田端と品川線を結ぶ短絡線として豊島線を建設したのです。

 免許取得時は大塚からまっすぐ目白に向かう計画でしたが、高台に挟まれたくぼ地にある目白駅付近の用地取得がうまくいかなかったため、土地だけはいくらでもあった池袋に駅を設置する計画に変更されました。

 池袋駅設置から3年後の1906(明治39)年に鉄道が国有化され、さらに3年後には山手線に電車が走り始めると、交通の結節点となった池袋の周辺には人が次第に集まってくるようになります。1914(大正3)年に東上鉄道、1915(大正4)年に武蔵野鉄道が開業。1925(大正14)年に山手線が環状運転を始めると、都心への通勤、通学がさらに便利になって、近郊の住宅化とともに新宿や渋谷に並ぶターミナル駅として急速に発展していきました。

国鉄の線路を「下支え」してトンネル構築

 戦後も東武東上線、西武池袋線沿線の人口増加が著しく、池袋駅の乗降客は戦前の1.5倍となる50万人に達しました。山手線の輸送力は池袋~大塚間で混雑率が300%を超えるなど限界に達していたことから、戦後初の地下鉄丸ノ内線は池袋から建設されることになりました。

 混雑しているのは電車だけではありません。急激な発展に設備の改善が追い付いていなかった池袋駅構内はいつも大混乱していたことから、丸ノ内線池袋駅は国鉄、東武、西武の地下を横切るように設置することで、各路線から乗り換えのしやすい構造とする計画が立てられました。

 ただしこの計画を実現するためには、国鉄の線路を下支えしながらトンネルを構築する大掛かりな工事が必要で、国鉄側としても駅全体の連絡構想がまとまっていない段階では手を付けにくい状況でした。

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池袋駅中央通路の最終的な施工分担(『丸ノ内線建設史』収録の図面に枝久保達也加筆)。

 そこで、国鉄の線路にかからない東口駅前広場の道路下と西武の駅ビル部分を先行して整備。丸ノ内線池袋駅は仮設ホームを用いた仮駅として開業させることになり、中央通路と駅の本設工事は池袋駅全体の整備方針が固まってから着手することとされました。

 現在の丸ノ内線池袋駅は西口から東口にかけてみっつの改札口が設置されていますが、1954(昭和29)年の開業時点で完成していたのは上図で示した「西武担当」「営団担当」のエリアだけでした。残りの「国鉄担当」「東武担当」部分が完成し、中央通路が西口に到達するには、丸ノ内線開業から8年後の1962(昭和37)年まで待たねばなりません。

 丸ノ内線の仮設ホームは工事が進むまでの間、開業から6年後の1960(昭和35)年まで使用されました。

仮駅時代のホームは「島式を囲む相対式」

 それでは、池袋仮駅の仮設ホーム(以下旧ホーム)はどのような構造だったのか、詳しく見てみましょう。

『丸ノ内線建設史』に掲載されている図面をベースに書き起こしたのが上の平面図です。なお本稿では旧ホーム上の階段は、1番線側をAとB、2番線側をCとDとして説明を進めていきます(私が便宜上付けたもので、正式な名称ではありません)。

 オレンジ色で示した部分が相対式の旧ホームで、現在の島式ホームよりも新大塚寄りに位置していました。水色で示した部分、トンネルに張り出したホーム端部こそ後日改築しやすいように板張りとされましたが、長期間にわたって使用することが想定されていたホーム本体の壁面や階段は、通常の駅と同様の構造と仕上げで作られました。

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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