小田急は東京駅に乗り入れるつもりだった 知られざる戦後の都心直通構想
関東大手私鉄の多くは山手線の駅から郊外に伸びています。終戦直後には山手線を越えて都心に乗り入れる構想が多数浮上しましたが、最終的には地下鉄との相互乗り入れに変わりました。かつて東京駅を目指した小田急の計画の変遷を見てみましょう。
都心への乗り入れを拒む「壁」とは
東京都心を一周するJR山手線は、その内側への私鉄乗り入れを拒む「万里の長城」などと言われることがあります。確かに路線図を見ると、ほとんどの私鉄が山手線の駅をターミナルにしており、それより内側には入っていないことが分かります。
しかし、これは半分正しくて半分間違っています。私鉄の乗り入れを拒む壁は山手線ではなく、下の路線図にグレーで示した旧・東京市の市域でした。
なぜ市域が「壁」になったのかというと、ひとつは2018年5月12日に配信した「東京の鉄道文化を決定づけた明治の決断 『外濠』が生み出した中央線」で取り上げたように、鉄道の市内乗り入れは立体交差を原則としたことで、私鉄自身がそれを避けたという背景があります。
そして、もうひとつ大きな影響を及ぼしたのが、東京市の交通市営主義です。
大正期の東京市内交通のほとんどを担った東京市電は、1911(明治44)年に東京市が民営の東京鉄道を買収して成立したもの。これ以降、東京市は市内の交通を一元的、独占的に運営していくという意志を明確にして、私鉄の市内延伸を拒んだのです。
市内延伸を封じられた私鉄は市電への乗り入れによる都心進出を図り、明治末から大正初期にかけて開業した京浜電気鉄道、玉川電気鉄道、京王電気軌道、京成電気軌道は市電と同じ1372㎜の軌間を採用します。しかし、玉電の砂利輸送や京浜の高輪乗り入れなどの事例を除き、私鉄の市電乗り入れは実現しませんでした。
無理に乗り入れなくても…山手線にターミナル
一時は東京市内交通の約8割を担った市電でしたが、すぐにその限界を露呈してしまいます。第1次世界大戦による空前の好景気で東京の都市圏や人口が急激に拡大し、路面電車の輸送力では対応できなくなってしまったのです。
そこで、次世代の都市高速鉄道整備を唱えたのが、のちに「地下鉄の父」と呼ばれる早川徳次でした。早川の出願によって地下鉄網整備の機運が高まると、地下鉄事業への参入を表明する事業者が次々と現れ、1920(大正9)年までに4社に対し以下の免許が下付されました。
その中で特筆すべき存在が、小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)の前身といえる「東京高速鉄道(※)」と、東京横浜電鉄(現在の東急東横線)の前身である「武蔵電気鉄道」です。両社はのちに郊外私鉄として開業しますが、元々は郊外に延びる路線と都心直通の地下線のセットで計画されたものだったのです。
※東京高速鉄道は現在の東京メトロ銀座線・新橋~渋谷間を最初に運営していた会社として知られますが、この東京高速鉄道が設立されたのは1934(昭和9)年の設立で、小田急の前身として1919(大正8)年に発起された本記事中の東京高速鉄道とは無関係です。
ところが、これらの構想は第1次世界大戦の反動不況や関東大震災により着工に至らないまま頓挫してしまいました。震災後は地下鉄整備計画そのものが見直され、東京地下鉄道が免許を有する1号線以外は東京市が免許を取得し、市営地下鉄を建設する構想に落ち着きます。
しかし、民間会社の東京地下鉄道も、帝都復興事業を抱える東京市も、資金的な余裕がなく、地下鉄建設は遅々として進みません。この時代、都市交通の大きな役割を担ったのは鉄道省の電車ネットワーク、いわゆる「省電」でした。
関東大震災を契機として東京の本格的な郊外化が進展すると、目黒蒲田電鉄(現在の東急目黒線や東急多摩川線)をはじめとする郊外私鉄の本格的な発展が始まります。これらの私鉄は無理に市内乗り入れを試みるよりも、輸送力、速度ともに優れ、都心まで直行する山手線に任せた方が合理的という判断をして、いずれもターミナルを山手線の駅に置きました。
こうして現在まで続く、山手線を「壁」とした路線網が成立するのです。
戦後混乱の「隙」ついて乗り入れ計画再び
この関係を固定化したのが、1938(昭和13)年に成立した陸上交通事業調整法です。
1927(昭和2)年、昭和金融恐慌から始まる長期の経済低迷により、輸送需要は大きく落ち込みました。さらに関東大震災以降、乗合自動車(バス)の普及が急速に進んだ影響で、都市部の交通は過当競争に陥ります。
また、日中戦争が勃発し、戦時下における防空上の観点からも、地下鉄建設の促進が求められるようになります。しかし、民間企業任せの体制では遅々として進まなかったことから、国家の強力な後押しによる地下鉄整備が必要とされた時代背景もありました。
そこで、首都圏の私鉄を4ブロックに分け、鉄道、バス事業者を統合することによって経営の合理化、効率化を促し、東京市都心15区内の地下鉄の建設と運営を帝都高速度交通営団(営団地下鉄、現在の東京メトロ)が担い、地上の路面電車・バスは東京市が担うという役割分担を決定したのです。
この交通調整は、太平洋戦争の勃発により思うような成果をあげられないまま終戦を迎えるのですが、戦後になって問題となるのが、その正当性でした。
まず口火を切ったのが、地下鉄建設の主導権を奪われる形となった東京都。交通調整は戦時体制下の統制によるもので無効であると営団廃止運動を展開しました。実際、交通営団のほかに設立された営団(食料営団や住宅営団など)は、全てGHQの手により廃止されています。
また、都心(旧・東京市都心15区)から締め出された私鉄も、交通営団と東京都交通局の縄張り争いの隙を突き、交通調整の無効を唱えて都心への路線延伸を画策しはじめます。
戦時中の疎開などで人口が激減していた東京に人々が戻って復興が進むにつれ、戦前以上のペースで郊外化が進んだため、各私鉄の輸送量は急激に増加して大変な混乱状態にありました。そこで私鉄は首都交通問題の抜本的解決を唱え、これまでの地下鉄整備計画を無視する形で独自の都心直通路線を出願することになったのです。
この戦後の10年間に行われた交通調整の見直しにより、現在の東京の交通体系の基礎が形作られるのですが、まだ歴史として語られるまでには至っていません。
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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx