ドイツ軍ツェッペリン飛行船「アフリカ号」 大冒険飛行と反転のナゾ 不滅の大記録も
行くか戻るか? 孤立無援の「圏外」飛行
1917(大正6)年11月21日午前5時、「アフリカ号」は22名の乗員に、フォルベック隊向けの機関銃30丁と小銃、弾薬、医薬品、郵便物、鉄十字勲章など補給品15tを搭載して、ブルガリアのヤンボルにあった飛行船基地を飛び立ちます。作戦名は「China-Sache(中国案件)」で、遠大な飛行を予感させるものでした。同盟国トルコの領空を通って地中海を横断しますが、クレタ島付近で暴風により通信アンテナを破損し、無線連絡が不調になり、「アフリカ号」の前途に暗雲が立ち込めます。
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11月22日午前5時15分、「アフリカ号」はアフリカ大陸に到達します。寒暖差が大きい過酷な砂漠環境で、高度を一定に保つことさえ困難な飛行となりました。昼間は酷暑のなか、砂漠からの強い照り返しで乗員は目をやられ、夜間は気温が下がるにつれどんどん高度も下がり、23日の朝には地表スレスレまで降下して墜落寸前、乗員は寒さに震えます。全長200mを超える巨体が超低空飛行するのですから、下から見上げれば大迫力だったはずです。
そうしたなか、運の悪いことに、前部ゴンドラのエンジンがトラブルで停止。このエンジンが無線機用発電機を動かしていたため、無線受信はできるものの発信ができなくなりました。そしてこの無線通信に、その後「アフリカ号」は翻弄されることになります。
11月23日、行程の約半分であるスーダンのハルツームから西方約200km付近を飛行中のことでした。「アフリカ号は作戦を中止。帰還せよ」との命令無線を受信し、船内ではこの無線をめぐって議論が起こります。一部の乗員は、これをイギリスの謀略だとして飛行継続を主張しますが、無線を受信することはできても発信できない「アフリカ号」には確かめる術がありません。
アフリカにラドンみたいな本物の“空の魔王”がいたのかも