隠せ隠せ! 史上最大の戦艦「大和」 80年前の進水式も極秘 徹底的な隠蔽工作のワケ

起工から沈没まで知らされなかった「大和」

 ここまで建造がひた隠しにされたからこそ、進水式典も冒頭に述べたとおり、ひっそりと行われたのです。

 旧日本海軍の対策は徹底しており、進水式当日には、呉市内で陸戦隊が市街戦演習を行うことで市民の目をそちらに逸らし、併せて市内要所には警官や憲兵を配置しました。海上には警備艇を出し、港内を行き交う船舶に目を光らせただけでなく、煙幕を展張してドックを覆い隠すことまで行ったそうです。

 こうしてひっそりと進水した「大和」は、そののち艤装や公試も様々な隠蔽のなかで行われ、1941(昭和16)年12月16日に就役します。しかし運用が始まったあとも一般の日本国民には秘匿され続け、一部報道などで巨大な新鋭戦艦が存在するということは明らかにされたものの、艦名を含めて詳細は戦後まで公にされませんでした。

Large 200805 yamato 03

拡大画像

2020年現在、ジャパンマリンユナイテッド(JMU)呉工場として使われている旧呉海軍工廠。ここで戦艦「大和」は建造された(柘植優介撮影)。

 戦艦「大和」は1945(昭和20)年4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖で沈みますが、このことも国内で報じられることはありませんでした。

 いまでは、呉市の至る所で戦艦「大和」に関するものが見受けられます。75年前ほとんど知られていなかったことと比べると、まるで真逆のようです。しかし、そのようにPRできるということは、それこそ日本が平和であることの証左なのかもしれません。

【了】

【写真】戦艦「大和」に爆弾が命中! その瞬間

Writer: 柘植優介(乗りものライター)

子供のころから乗り物全般が好きで、車やバイクはもちろんのこと、鉄道や船、飛行機、はたまたロケットにいたるまですべてを愛す。とうぜんミリタリーも大好き。一時は自転車やランニングシューズにもはまっていた。

最新記事

コメント

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシー利用規約が適用されます。

1件のコメント

  1. 呉の出身者(しかも、大和のドッグの真上)からすると、昭和40年代のはじめでも、校舎の海側は迷彩とおもわれる済と灰色が残っていましたし、目隠しだったのであろう高い塀が残っていました。また古い家には目隠しをしていたと思われる部材のあともありました。(東郷元帥が一時済んでいた家というのも残っていました。)
    しかし、かなりの範囲の人が実は「大和」というすごい船が作られた、という話は知っていたようですし(表では知らないことにしていた)、隠せば隠すほど、なんとなくいろんな事に気づいていた、という話を聞いたことがあります。
    なおかつ、米国の諜報員はほとんどその全容を丸裸にしていたようですので、単に市民を脅しただけに終わっていた、という話を古老から聞いたことがありました。