いわゆるラスボスっぽい「日本海軍連合艦隊旗艦」 その最後が軽巡「大淀」だったワケ

結局のところ旗艦ってフネでなくてもよくない?

 地味な軽巡「大淀」が連合艦隊旗艦に大抜擢されたのは、司令部庁舎としてのキャパシティがあったからです。「大淀」も潜水艦隊「旗艦」として建造されていました。

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1944年10月25日エンガノ沖海戦で損傷した空母「瑞鶴」の甲板から司令官旗を移乗させるために接近した「大淀」を撮影した。(画像:アメリカ海軍)。

 戦艦による艦隊決戦前に敵戦艦隊へ打撃を与えておこうという、潜水艦隊による漸減作戦の発想から生まれた「大淀」は、高性能水上偵察機やレーダーを揃え、複数の潜水艦の目となり統一指揮するというユニークな設計発想を体現、水上偵察機を6機格納する巨大格納庫、44.5mに及ぶカタパルトが設置され、水上機母艦ともいえる構造になっていました。もちろん、潜水艦隊を指揮する通信設備も充実。軽巡といいながら基準排水量は8000トンクラスであり、重巡並みの大きさでした。

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1945年7月28日空母「シャングリラ」艦載機が撮影した、呉港で攻撃を受ける「大淀」(画像:アメリカ海軍)。

 しかし、いざ開戦すると日本海軍が期待した戦艦による艦隊決戦は起こりません。「大淀」にも潜水艦隊旗艦として機能を発揮する機会は訪れません。漸減作戦を諦めた海軍は姉妹艦(予定艦名「仁淀」)の建造を中止したため同型艦は1隻のみとなり、大きさの割に弱武装で構造も特殊すぎていたため、戦隊も組めないボッチの使いづらい艦になってしまいます。それが連合艦隊旗艦として白羽の矢が立った要因でした。「大淀」にとっても、あまり晴れがましいものではなかったようです。

 司令部が入居できるように巨大な水上機格納庫を3階建てに改造し、上段に幕僚室、中段に作戦室と幕僚事務室、下段に司令部付の事務室や倉庫が設置されます。カタパルトも従来型に変更され、艦載機数は2機となります。冷房も完備して庁舎としてはそれなりに使い心地は良かったとされます。

 しかし司令官旗を掲げていたのは約5か月間だけで、しかもこの間、旗艦らしく行動することもなく、木更津沖に停泊したままでした。連合艦隊司令部は1944年9月29日に現横浜市港北区の慶応大学日吉台キャンパスへ移転してしまい、「連合艦隊旗艦」という艦艇は無くなってしまいます。冷静に考えれば、木更津沖に浮かんだ艦より地上にあった方が、「庁舎」として使い勝手が良いのは当然です。

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1945年10月9日呉湾で撮影された横転している「大淀」(画像:アメリカ海軍)。

 普通の軽巡洋艦に戻った「大淀」はあちこちに駆り出されるも、大きな損傷は受けませんでした。1945(昭和20)年7月28日、呉で空襲を受け、横転大破着底して終戦を迎えます。

【了】

【写真】「大淀」甲板上の連合艦隊司令長官 豊田大将

Writer: 月刊PANZER編集部

1975(昭和50)年に創刊した、40年以上の実績を誇る老舗軍事雑誌(http://www.argo-ec.com/)。戦車雑誌として各種戦闘車両の写真・情報ストックを所有し様々な報道機関への提供も行っている。また陸にこだわらず陸海空のあらゆるミリタリー系の資料提供、監修も行っており、玩具やTVアニメ、ゲームなど幅広い分野で実績あり。

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コメント

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1件のコメント

  1. かくてミサイルの世となり旗艦は比喩的表現にその名を残すのみに…帽を振れー!