わずか0.3kmの至近駅 山手線を越える高架 東急池上線 大崎広小路~五反田間の謎
いま無きもうひとつの始終点駅と、五反田駅が高所にある理由
一方の池上電気鉄道は、土地買収の難航などから、まずは1922(大正11)年に蒲田~池上間(1.8km)を開業するにとどまります。当時は郊外だった区間なので乗客は少ないうえ、資金不足によりなかなか五反田駅まで延ばせません。1927(昭和2)年8月には、五反田駅の手前約1kmの桐ヶ谷という、何とも中途半端な場所まで線路を延ばし始終点としました。現在の戸越銀座~大崎広小路間に駅が設けられましたが、付近のめぼしい施設は当時、桐ヶ谷火葬場と数か所の工場だけでした。
その後、同年10月に大崎広小路まで延伸、そこから先は全線が高架で人家も密集しているため工事は難航し、1928(昭和3)年6月、やっと五反田まで開通の日を迎えました。
五反田駅ホームを高い所に造ったのは、山手線をまたいで都心方面へ向かい、白金猿町(現・都営浅草線の高輪台駅付近)を経て品川駅まで建設する計画のためでした。当時、銀座方面から白金猿町まで市電が走っていて、池上電気鉄道はそれとの乗換客を想定していました。
池上線の品川延伸計画は、京浜電鉄(現・京浜急行)の青山線計画(品川~白金猿町~青山間)との調整、東京市電の五反田延伸(1933年)などにより、実現せずに終わります。
そして1934(昭和9)年、池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄に吸収合併されてしまいます。大崎広小路駅は、五反田延伸までの暫定駅的な性格が強かったので、もし池上電気鉄道の経営者にもっと手腕があり、現在の東急目黒線のように山手線接続駅(五反田駅)側から建設していたら、大崎広小路駅は同地に造られなかったでしょう。
ちなみに、もうひとつの始終点駅だった桐ヶ谷駅は、太平洋戦争末期に空襲で焼失し、1945(昭和20)年7月、休止(事実上廃止)の運命をたどりました。
特異な駅間が存在するのには、やはり様々な歴史があるわけです。
【了】
Writer: 内田宗治(フリーライター)
フリーライター。地形散歩ライター。実業之日本社で旅行ガイドシリーズの編集長などを経てフリーに。散歩、鉄道、インバウンド、自然災害などのテーマで主に執筆。著書に『関東大震災と鉄道』(ちくま文庫)、『地形で解ける!東京の街の秘密50』(実業之日本社)、『外国人が見た日本 「誤解」と「再発見」の観光150年史』(中公新書)』ほか多数。
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