焼け跡に降った毛布やミルク 自衛隊初のパラシュート「物量投下」 なぜ奄美で実施?
1958(昭和33)年の年の瀬、大火に見舞われた奄美大島に、空中からパラシュートを使って物資が投下されました。自衛隊初となった、任務としての「物量投下」は、はるばる東京から飛んできたC-46輸送機によって行われました。
離島で起きた大火に自衛隊機が救援
いまから60年ほど前のある冬の日。日本に返還されて間もない南西諸島の奄美大島に、野太い音とともに4機の大きな双発プロペラ機が飛んできました。
それらの機体には大きな日の丸が描かれており、機体から投下されたいくつもの包みは、待ち受ける島民の頭上で次々とパラシュートの花を咲かせます。中身は毛布、衣類、乾燥ミルク、小麦粉など、多くの島民が待ちわびるものでした。
飛行中の輸送機からパラシュートを使って物資を空中投下する「物量投下」。一般的には戦地へ物資を輸送する方法というイメージがあるかもしれませんが、一般市民に対しても実施され、自衛隊やアメリカ軍の基地祭(航空祭)などで、C-1やC-130といった輸送機が実演することもあります。これを自衛隊が初めて任務で実施したとされるのは、1958(昭和33)年12月29日の奄美大島でした。
しかし、なぜ自衛隊機は奄美大島で島民に向けて物量投下を実施する必要があったのでしょう。そこには年の瀬に奄美大島を襲った大災害が関係していたのです。
話は12月27日の深夜に始まります。奄美大島の南部にある瀬戸内町古仁屋地区の一角で火事が起こりました。
当時の奄美大島は第2次世界大戦の空襲被害と1953(昭和28)年までアメリカ軍の統治下にあった影響で、住宅事情があまり芳しくありませんでした。そのような状況に、強風と異常乾燥が重なって短時間で燃え広がり、翌朝までに町役場、警察署、商店、米穀倉庫などを含む地区の大半1900棟以上が焼失。6000名近い住民が、食料も飲み水もないまま寒空に焼け出されてしまいます。
C-46輸送機から物量は投下出来ません❗