日本じゃ王者ボーイングよりメジャーだった!? 伝説の航空機メーカー「ダグラス」の軌跡
日の丸航空業界の黎明期になくてはならない存在
1951(昭和26)年に、半官半民の航空会社として定期旅客便の運航を始めたJAL(日本航空)では、定期便就航を前に、3日間の招待飛行を実施します。この時使用されたのが、フィリピン航空からチャーターしたDC-3で、「金星号」の名が与えられました。
初の定期旅客便を担当したのは、マーチン2-0-2型機だったものの、その後JALは国際線進出にあたって導入したDC-4を皮切りに、ダグラス製の旅客機を次々に採用しました。これは、DC-3で評判となっていた使いやすさ、丈夫で長持ちするなどの点を考慮したものだったのでしょうか。
その後1960(昭和45)にJALは、初のジェット旅客機として、「DC-8」を採用。このモデルは、細い胴体でスマートなフォルムを持っていたことから「空の貴婦人」と呼ばれ、昭和の国内民間航空における「顔」のひとつともなります。
もちろんDC-8以降の旅客機も、国内の航空会社では、馴染み深い存在となりました。
DC-8に次いで、ダグラスは、近距離向けの双発ジェット旅客機「DC-9」シリーズをデビューさせ、これはシリーズ累計で2000機以上製造される大ヒット機に。日本では当時のTDA(東亜国内航空。のちにJASとなり、その後JALと合併)が採用しています。
一方1970年代に入ると、いってしまえばダグラス超優勢だった日本の民間旅客機市場に革命が起こります。ライバルのボーイングが生み出したのは、「ジャンボジェット」の名で親しまれた747シリーズ。いわゆる「大量輸送時代」の幕開けです。ただこの超大型機ゆえの弱点を、ダグラスは新型機の開発に盛り込むことにします。
ダグラスの倒産の直接の原因はDC9の受注が好調すぎて黒字倒産したことにあります。DC-10は今ひとつ売れなかったが、DC-9の受注は絶好調でしたが、背景にオイルショックなどにより材料仕入れ価格の上昇などがありましたが製造と販売のタイムラグが大きく入ってくるお金と出て行くお金のバランスがとれず倒産したものです。ボーイングに合併後もDC-9系列の飛行機(MD85系やB717)はダグラス系列の飛行機では最後まで生産されていました。
ダグラス社は、セントルイスにあったと思います。仕事で、半月言ってました。当時、上空をファントムが飛んでました。