日本じゃ王者ボーイングよりメジャーだった!? 伝説の航空機メーカー「ダグラス」の軌跡
アメリカにかつて存在した老舗航空機メーカー「ダグラス」。現在はボーイングの一部となっているものの、かつて日本の航空業界では「ダグラス機だらけ」だったこともあるほど隆盛を誇っていました。なぜ消えたのか紆余曲折を見てみます。
1万機以上生産された超有名プロペラ旅客機「DC-3」
アメリカにかつて存在したダグラス・エアクラフト社は、かつてボーイング社やロッキード社と並んで、旅客機から軍用機まで開発していた老舗の航空機メーカーでした。しかし1996(平成8)年にボーイングと合併し、現在は同社の一部となっています。
とはいえ、同社がかつて製造した旅客機には、時代を席捲した大ヒットモデルもあります。その代表例が、最も有名なレシプロ旅客機として広く知られている「DC-3」でしょう。型式につけられた「DC」のDは社名の“Douglas(ダグラス)”、Cは民間機を示す“Comercial(コマーシャル)”を意味します。もちろん「DC-3」が脚光を浴びる前から、DC-1、DC-2という機体が存在しました。
ただ、実はDC-3が脚光を浴びたのは、製造当初からではありませんでした。第2次世界大戦中、同モデルを「C-47」の型式名で軍用輸送機に転用、1万機以上製造されます。その結果、終戦によって余剰化した「C-47」が、大量に民間に放出され様々な用途に使われたことで、一挙に名前が広まったのです。そのため、DC-3として広く世に知れわたっている機体の多くは、実は元「C-47」が大半で、生まれながらの民間機としてデビューした「純粋なDC-3」はレアな存在といえるでしょう。
ちなみに、実は日本産の「DC-3」も存在していました。日本では開戦前にダグラス社からDC-3の製造ライセンスを購入しており、エンジンを三菱製「金星」エンジンに代えるなどしたのち、400機以上が1945(昭和20)年までに製造されたと記録されています。
こういった関連性から、戦後の日本の民間航空業界の発展には、ダグラスが大きな関わりを持つようになったのかもしれません。
ダグラスの倒産の直接の原因はDC9の受注が好調すぎて黒字倒産したことにあります。DC-10は今ひとつ売れなかったが、DC-9の受注は絶好調でしたが、背景にオイルショックなどにより材料仕入れ価格の上昇などがありましたが製造と販売のタイムラグが大きく入ってくるお金と出て行くお金のバランスがとれず倒産したものです。ボーイングに合併後もDC-9系列の飛行機(MD85系やB717)はダグラス系列の飛行機では最後まで生産されていました。
ダグラス社は、セントルイスにあったと思います。仕事で、半月言ってました。当時、上空をファントムが飛んでました。