「新路線? 絶対阻止だ」高速バス成長期の攻防 国鉄の横槍も跳ねのけた気概を、今こそ
「鉄道ローカル線に影響が及ぶ」国鉄の横槍
1960年代ごろまでは、こうした地域のバス事業者間の「縄張り争い」が激しかったものの、80年代頃には境界線は落ち着いていました。ところが、高速道路の延伸が、この境界線を揺さぶります。隣県どうしと言える富士五湖線などと比べると、伊那飯田線は距離が長い分、多数の事業者のエリアをまたがって運行します。そこで、中間会社も参入する権利を主張したのです。
中間会社は少ない便数のみを担当することで決着し、共同運行の形で運輸省(現・国土交通省)に申請すると、今度は国鉄(当時)から「待った」がかかります。長距離の旅客が高速バスに奪われると、鉄道ローカル線の通勤通学輸送の維持にも影響がおよぶ、という論理です。しかし、運輸審議会での議論を経て、1984(昭和59)年12月、高速バスの運行開始が認められました。
京王バス(当時は京王帝都電鉄自動車事業部)らは、次に諏訪岡谷線の開設を国に申請します。ところが、今度は、国鉄が別の形で応戦してきました。現地(下諏訪)に営業所を持っていた国鉄バスが、自ら競合路線を申請してきたのです。当時、運輸省は、複数の高速バスが同一区間で競合する「ダブル・トラック」を認めておらず調整が進みません。
京王らは、伊那飯田線の免許を活用し、中央道上の停留所「中央道茅野」止めで暫定開業するという「荒業」まで持ち出しました。諏訪バス(現・アルピコ交通)が伊那飯田線に中間会社として参入していたことが、意外なところで役に立ったのです。その後、国鉄バスは少ない便数のみを担当する形で、5社共同運行で諏訪岡谷線が正式開業したのは1987(昭和62)年のことでした。
翌1988(昭和63)年には長野道が岡谷から松本まで開通。当然、次なる新規路線は松本線です。この松本線は、先の2路線とは二つの点で異なる形態となりました。
一つは、京王と松本電鉄(現・アルピコ交通)という起終点会社のみの2社共同運行で、中間会社が参入しなかった点です。阪急バスらの大阪~新見・三次線開業時の議論などを経て、「停留所を設けず通過するだけの高速バス路線は、中間会社の権利を侵害しない」とされ、起終点2社だけの申請でも路線開設を認める、という風に、運輸省の判断が変わっていたのです。
ヤマト運輸が営業区域をなかなか広げられなかったのは旧郵政省の横槍だったのでしょうか。
高速バスからの内部補助では路線バスをもう維持できないと自治体に揺さぶりをかけた会社もありました。
内外房線や鹿島線では鉄道の特急はあまり見かけなくなりました。
ビジネスとして見合うかはわかりませんが高速バスの利用者を少し増やせる方法があります、それは車両を車椅子対応にすること。
筆者と同年代ですが、高校生の頃、ゆうパック仕分けのバイトに行ってた自分、社長(集配局の元郵便局長)が「クロネコが30円台で年賀状配るつもり」とおっしゃってたのを思い出します(当時のハガキは40円)。
しかし関西でも私鉄系バス会社による高速バスが縮小気配なので(自分の沿線だとそこを運行してる夜行バスはコロナ禍前でも東京を結ぶ1往復のみ。後は昼行バスとか運転支援のみ。昔は東京行きが2往復あったり九州行きもあったのですが)どうなるんでしょうかね。