「新路線? 絶対阻止だ」高速バス成長期の攻防 国鉄の横槍も跳ねのけた気概を、今こそ

若かった高速バス業界 「武勇伝」の数々

 もう一つ、京王/松本電鉄の新宿~松本線は、分割民営化直後のジェイアールバス関東と松本電鉄が共同運行する東京駅~松本線との同日開業でした。この頃になると、運輸省は高速バスのダブル・トラックも認めるようになっていたのです(東京駅~松本線は、その後3年で廃止)。

 こう見ると、80年代半ばの約5年、高速バスの制度が猫の目のように変わったことがわかります。高速道路延伸やバブル経済による需要増加を背景に、バス事業者自身がその動きをリードしました。最初は事業者どうしの確執、その後は、「負け組」発生や共倒れを危惧する国の過保護政策をはねのけ、自由な路線開設を目指す戦いでした。

 雑誌『鉄道ジャーナル』1985(昭和60)年5月号の特集「高速バスと鉄道 列島を駆ける“高速バス”の脅威」では、交通ジャーナリストの鈴木文彦氏が、開業直後の伊那飯田線をレポートしています。

 そこには、中央道が濃霧で通行止めとなり、バスは一般道を迂回運行する一方、信南交通の社員が業務用車で途中停留所を回って乗客に対応する様子が生き生きと描かれています。この対応自体は、法令上、現在では困難ではあります。しかし、鈴木氏が「国鉄は何かを学び取る必要があるのではないだろうか」と結んでいるように、乗客の方を向いていないと言われた国鉄と対照的に、若く挑戦的だった高速バス業界の空気感が伝わってくるレポートです。

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京王の高速バス。伊那飯田線、中央道辰野にて(中島洋平撮影)。

 筆者(成定竜一:高速バスマーケティング研究所代表)が京王の新宿高速バスターミナルでアルバイトを始めたのが、大学2年生の時、1992(平成4)年です。挑戦の余韻は社内に色濃く残っており、本社や現場の管理職の皆さんから「武勇伝」を何度も聞きました。今の仕事を始めてからは、別の大手私鉄系事業者の重鎮から「『ウチのバスを並べて高速道路を封鎖してでも、隣の事業者の新路線を阻止してやる』と息巻いたもんだ」と思い出話を伺ったこともあります。

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コメント

2件のコメント

  1. ヤマト運輸が営業区域をなかなか広げられなかったのは旧郵政省の横槍だったのでしょうか。

    高速バスからの内部補助では路線バスをもう維持できないと自治体に揺さぶりをかけた会社もありました。 

    内外房線や鹿島線では鉄道の特急はあまり見かけなくなりました。 

    ビジネスとして見合うかはわかりませんが高速バスの利用者を少し増やせる方法があります、それは車両を車椅子対応にすること。

    • 筆者と同年代ですが、高校生の頃、ゆうパック仕分けのバイトに行ってた自分、社長(集配局の元郵便局長)が「クロネコが30円台で年賀状配るつもり」とおっしゃってたのを思い出します(当時のハガキは40円)。

      しかし関西でも私鉄系バス会社による高速バスが縮小気配なので(自分の沿線だとそこを運行してる夜行バスはコロナ禍前でも東京を結ぶ1往復のみ。後は昼行バスとか運転支援のみ。昔は東京行きが2往復あったり九州行きもあったのですが)どうなるんでしょうかね。