魚雷に人間ライドオン! わずか2人で戦艦撃沈&奇跡の生還までのドラマ 100年前イタリア
007も真っ青の緊迫さ! 「人間魚雷」で大戦果!!
「ミニャッタ(ひる)」と名付けられた新兵器は、175kgの炸薬が入った弾頭2個をそれぞれ本体から切り離して、敵艦の底に人力で設置、最長6時間セット可能な時限式信管で爆破させるというもので、その間に潜水服を着た乗員は残った本体を操縦して母船に帰還するというものでした。
その実行には大きな困難が予想されたため、イタリア海軍は兵器としての有用性に難色を示したものの、開発者であるラッファエレ・ロセッティ技術将校は、ペアであるラッファエレ・パオルッチ軍医中尉と4か月におよぶ激しい潜水訓練を行い、実用に耐えうることをイタリア海軍に認めさせます。
その結果、2人は作戦計画の承認まで勝ち取りました。それは、敵であるオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍がポーラ軍港内で温存する大型戦艦3隻のうち2隻に攻撃を加えるというものでした。
1918(大正7)年10月31日22時、ポーラ軍港の入口で「ミニャッタ」2号機は、母船である「M.A.S.-95」艇から闇に紛れて発進。2人乗りの“人間魚雷”は、障害物として浮かべてある丸太をよけて進み、防波堤を迂回したのち夜中の3時には、潜水艦や魚雷が侵入するのを防ぐために張られた三重の防御ネットを突破することに成功します。
この時点で魚雷の推進燃料である圧縮空気は半分以上を消費していたため、港の入口で待つ母船のM.A.S.艇へ帰還することは無理であることを2人は悟ります。「片道切符」になることを決意すると、港内に停泊する艦船群の中でもひときわ大きい戦艦「フィリブス・ウニティス」(排水量約2万1千トン)に目標を定め、朝4時半には目標の100m前方まで到達しました。
船底に弾頭のひとつを取り付けて時限装置を起動させますが、そこで「ミニャッタ」が敵艦の水兵に発見されてしまい、2人は捕えられます。彼らは爆弾をセットした戦艦「フィリブス・ウニティス」のうえで尋問を受けました。当初は敵兵を欺くため、水上機による侵入だと嘘の証言をしますが、思い直して時限爆弾の存在と、爆発が30分後に迫っていることを艦長に告げます。
そして定刻。2人が乗った戦艦「フィリブス・ウニティス」は、艦全体を震わす大爆発を起こすと、爆破口からの浸水で船体は右に急速に傾斜、15分後には転覆して300人のオーストリア・ハンガリー将兵とともにポーラ港内に沈んだのでした。
ちなみに、このとき迷走していた「ミニャッタ」の残りの弾頭も湾内で爆発、この影響で兵員輸送船として用いられていた大型汽船ウィーン(排水量約7300トン)も沈没しています。
ただ、当のロセッティとパオルッチは沈没前に海に飛び込んだことで命拾いします。一旦は敵の船に収容され捕虜になったものの、5日後にはポーラ軍港を占領した味方イタリア軍により解放され、無事祖国に帰還しました。
イタリア海軍において、この特攻作戦が与えた影響はかなり大きかったようで、その後も密かに特殊攻撃用海中兵器の研究が続けられます。その結果、第2次世界大戦においてイタリア海軍は新型の「人間魚雷」や爆破工作フロッグメンを特殊作戦で活用しています。
100年以上前に、ひとりのイタリア人技術将校がろ獲(捕獲)した敵魚雷を転用して作り上げた「水中バイク」、21世紀の現代において各国の特殊部隊で多用されるほどになっているとは、当時のイタリア軍幹部は誰も夢想だにしなかったといえるのではないでしょうか。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
乗員が脱出できない自殺兵器・人間魚雷がこの数十年後にどこかで作られ多大な損失を味方に与えましたね。