戦法ただ一つ「体当たりで沈めろ」ツノを持つ異形の「衝角艦」砲撃戦時代になぜ蘇った?

古代の軍船には、「衝角」という体当たり攻撃用の鋭い突起がついていました。これは大砲の発達とともに過去のものとなりましたが、19世紀に復活、各国の海軍は競って新たな「衝角艦」を建造します。その理由をひも解きます。

軍船のツノで体当たり

 はるか昔の古代ギリシャ・ローマ時代には、舳先(へさき)が鋭くとがった、いわば角のような形をした軍船(現代の軍艦)が存在していました。この時代、体当たりによって敵船に大きなダメージを与えていたのです。古代の軍船にあったこの「衝角(しょうかく)」は時代の流れとともに廃れていましたが、19世紀半ばに鋼鉄で覆われた装甲艦が登場したとき、一時的に復活したことがあります。

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1588年にスペインとイギリスが戦ったアルマダの海戦。帆船時代の代表的な砲撃戦だった(画像:アートUK)。

 そもそも古代には大砲などないため、海戦では弓矢や投石器といった武器しかありませんでした。そのため、敵の船に致命傷を与えるには体当たりが一番手っ取り早い方法だったのです。そうなると舳先を鋭利な形にして頑丈にすればよい、ということで青銅や鉄でできた突起物を木造の船体に取り付ける方法が考えられました。英語で「ラム」と呼ぶ衝角は、文字どおり船を衝突させるための角(ツノ)でした。

 海戦が大砲の撃ち合いに変わるにつれ、衝角の出番はなくなっていきます。ただし初期の大砲は、鉄球や石を撃ち出すため威力が弱く船を沈めるほどの破壊力は有していませんでした。そこで、大砲が登場したあとも、敵の船に体当たりすることが想定され、衝角は維持され続けます。

 転機が訪れたのは18世紀後半にヨーロッパで始まった産業革命でした。これは軍事の面にも大きな変革をもたらします。中世以来、大砲は主に青銅製でしたが、良質な鉄を大量生産できるようになったことで、軍艦にも大型高威力の大砲が積まれるようになりました。また、火薬を詰めた榴弾(りゅうだん)が開発され、砲弾自体の破壊力も向上していきます。

 この新たな鉄製の大砲と榴弾による木造帆船の被害は甚大で、防御のため船体に鉄板を張るようになりました。こうして「装甲艦」が誕生します。

【写真】アメリカが造った最後の衝角艦「カターディン」

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コメント

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2件のコメント

  1. これ海上保安庁の巡視船に向いている装備ではないかと。
    体当たりで動けなくして乗り込んで拿捕。
    古代ギリシアの三段櫂船でも体当たりして乗り込んでたし。

  2. 蒸気軍艦での衝角復活の理由が書かれていないので補足。当時はまだマトモに作動する徹甲弾がありません。なので大口径主砲の着弾衝撃でリベット止めされた装甲の剥離を狙っていました。が、当時は揚弾機(艦底の弾薬庫から主砲直下の換装室まで弾を運ぶ、厚い装甲に守られている)や装填用のラマー(砲身に弾を装填する棒、のちには折り畳み式のチェーンラマーに進化)が未熟で一々砲塔と砲の角度を装填位置に戻す必要があった。これに5分近く掛かる。が、当時の船も12ノット前後は出しているので、1,2発の射撃に耐えれば衝角突撃が可能。有名なのがイタリア装甲艦とオーストリアハンガリー帝国の木造艦主体の艦隊が交戦し、予想に反して木造艦の衝角突撃によりオーストリアハンガリーが勝ちます。以降、装甲艦に最も有効な戦術となりました。日清戦争の清国の戦術は当時として最も当たり前の物です。が、自艦隊より速度で上回る相手に実施した事、日本海軍が新兵器、速射砲(薬莢式の今でいう普通の大砲、当時は砲弾と装薬を別々に装填。今でも大きな大砲はコレ)を大量装備して非装甲区画の破壊を狙って戦った為、日本が勝利した。