再熱? 車のナンバーにもなった「矢切の渡し」なぜ残ったか バスと船で都県境越え
なぜ残った?「矢切の渡し」廃止の危機を聞いた“作曲家”とは
映画「男はつらいよ」シリーズや歌謡曲「矢切の渡し」で脚光を浴びた矢切の渡しですが、東京都内で唯一残ったこの渡し船は、両岸の柴又・矢切地区の大切な生活の足として「官から民へ」引き継がれてきた歴史があります。
江戸川の渡し船は江戸時代には数多く、1616(元和2)年頃、利根川水系で関所の役割も持っていた「定船場」は16か所、のちに分流となった江戸川(江戸時代初期は「太日(ふとい)川」)には2か所設けられていました。当時は江戸幕府を揺るがした「大坂夏の陣」がようやく収まった頃で、江戸の街を囲む「巨大な堀」代わりとなる利根川水系の往来を、厳しく制限する必要があったのです。
しかし矢切の渡しは上記の「定船場」には含まれず、近隣の農民など限られた人が利用する「百姓渡し(農民渡船)」と呼ばれるものでした。ただ幕府による運営・管理は変わらず、外部の人間が許可なく利用すると関所破りのかどで、獄門・磔などに処されたそう。
明治維新以降に往来が解放され、江戸川には橋が架けられていきます。矢切の渡しの1kmほど上流にあった水戸街道「松戸金町の渡し」なども消える一方、柴又帝釈天が門前町として発展したことで農耕地が減少し、対岸に畑を求める農民が増えたことなどから、矢切の渡しは個人に委ねられ運航が続きました。千葉県側の矢切地区は最寄りの鉄道駅から遠く、渡し船は最短距離で通勤・通学できる「生活の足」として残ったのです。
しかし、道路の整備や農業従事者の減少によって、昭和40年ごろには廃止の危機を迎えます。その頃、渡船場には今にもバラバラになりそうな船が浮かんでいたとか。
「なくなるよ、そりゃ誰も乗らないもの」。こんな話を、あるとき近くの居酒屋で作曲家の船村 徹さんが聞いたそうです。その船村さんが作曲を手がけ、1976(昭和51)年にちあきなおみさんの歌唱で発売された曲が「矢切の渡し」でした。1983(昭和58)年に細川たかしさんがカバーしたシングルがミリオンセラー(102.5万枚)の大ヒットを記録すると、渡し船は観光ルートとして一躍息を吹き返したのです。
コメント