フランス生まれの「甲鉄艦」なぜ5か国も渡り歩いた? そもそも何しにニッポンへ
時は19世紀後半、何度も艦名を変えながらフランス、デンマーク、キューバ、アメリカを渡り歩いた軍艦がありました。やがてこの艦は来日し、幕末の動乱では幕府と官軍による争奪戦の的にも。稀に見る数奇な運命をたどった軍艦の物語です。
アメリカ南北戦争の落としだね
軍艦を含む船舶は、中古として外国へと売却された際にその名を変えることが多々あります。転売が繰り返された場合は、艦名変更も数回繰り返すこともありますが、19世紀後半にフランスで生まれたのち、デンマーク、キューバ、アメリカを渡り歩き、最後は日本にまで回ってきた軍艦がありました。その軍艦の名は「東(あずま)艦」。稀に見る数奇な運命をたどったこの艦の来歴を辿ってみます。
そもそも、「東艦」が生まれたのは1860年代初頭、アメリカ南北戦争の時代でした。1861年から1865年にかけて北米大陸で勃発し、アメリカが北と南に分かれて争ったこの戦争は、最新の軍事技術が投入された近代戦でした。この最中、南軍は同盟国のフランスに軍艦を発注します。それが1863年に起工され「スフィンクス」「キーオプス」と仮称された2隻です。両艦は全長56.9m、排水量1410トンの装甲艦でした。
この事実を知った北軍は、フランス政府に圧力をかけ南軍への引き渡しを阻止します。これにより困ったフランスは、新たな売却先を探すことにしました。
折から1864年2月にデンマークとプロイセンが領土をめぐって、「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」と呼ばれることになる戦いを始めます。
一方、日本の徳川幕府も1861年に軍艦「開陽丸」の建造をオランダに依頼していました。本来はアメリカに発注を予定していたのですが、南北戦争のため江戸初期から国交のあったオランダに建造を依頼したのです。
話を「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争」に戻すと、このデンマークとプロイセンの戦争にフランスは目を着け、まず1864年6月に完成した「スフィンクス」を「スタルカルド」と改名しデンマークに、「キーオプス」は「プリンツ・アダルベルト」という名でプロイセンに売却しました。なんと交戦国の両方に同型艦を売ったのです。
ところが、この戦争は7月にプロイセンの勝利で決着がついたため、「スタルカルド」は10月にコペンハーゲンに到着したものの、負けた方のデンマークは価格をめぐって引き取りに難色を示します。しかもデンマークは翌1865年1月に「スタルカルド」を戦争が続くアメリカ南軍に売却し引き渡してしまいました。
一方、プロイセンに売却された「プリンツ・アダルベルト」は、1871年まで同国の主力艦として活躍しています。
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