旧海軍空母「赤城」の大試行錯誤 堂々の三段甲板や20cm砲はなぜ設置され撤去された?
旧日本海軍の空母「赤城」は「航空母艦」なるもののスタイルが確立されていくまさにその過程にあった艦であり、大いに試行錯誤がなされました。当初はその象徴たる三段構えの飛行甲板のほか、実は重巡洋艦並みの主砲も搭載していました。
初めての大型空母は三段構えの飛行甲板!
昭和初期、旧日本海軍の空母「赤城」は、戦艦「長門」と国民人気を二分していたといいます。しかし、当時の国民が思い描く姿かたちと現代の我々が知るそれとでは、少々異なるかもしれません。
「赤城」は1920(大正9)年12月6日に、天城型巡洋戦艦2番艦として起工されています。ところが建造途中で締結された「ワシントン海軍軍縮条約」により戦艦などの保有数が制限されたため、巡洋戦艦としての建造は中止となり、空母に改装されることになります。軍縮条約でも、戦艦は廃棄させても空母への改装は認めるなど、空母は重視されていなかったことがうかがえます。当時、海戦の主役はあくまで戦艦同士の砲撃戦で、空母は搭載した戦闘機で敵の砲撃観測機を追い払う程度の補助艦扱いでした。
日本海軍は空母「鳳翔」を建造していましたが、大型空母は「赤城」が初めてで、どういう形がよいのかも分かりませんでした。そこで“師匠”であるイギリス海軍の「フューリアス」を手本にします。こちらも元は戦艦で空母に改装された艦です。
改装工事は1923(大正12)年11月9日から開始され、1927(昭和2)年3月25日に竣工します。このときの飛行甲板は独特の三段式(フューリアスは二段式)という、現代では見られない形式でした。最上段の甲板は着艦と攻撃機など大型機の発艦用、中段も当初飛行甲板にする予定でしたが、艦橋と20cm連装砲塔が2基設置され飛行甲板としては使われません。下段が戦闘機など小型機の発艦専用でした。当時の航空機は小型軽量で滑走距離が短くても発艦することが可能でしたので、飛行甲板を増やせば効率よく発艦させられると考えられました。
中段の連装砲塔以外に後部両舷にも単装砲3門ずつ、合計10門も20cm砲を装備し、その火力は重巡洋艦並みで砲戦にも参加させるつもりだったようです。
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