戦車の時代の「ラスト騎馬隊」結末は? イタリア騎兵団ヨーロッパ最後の乗馬突撃@ロシア
その数6万以上 イタリア騎兵団ロシア戦線へ
イタリアの騎兵部隊は長い伝統を持っており、その起源はサヴォイア公国(現在の伊仏国境周辺の地域)で1668年に創設された2個竜騎兵連隊にさかのぼります。
1861年のサヴォイア公によるイタリア統一から半世紀をかけて30個騎兵連隊にまで規模が拡充したものの、第1次世界大戦で前述したように騎兵の存在意義に疑問が生じます。その後は近代化で規模が縮小され、代わりに「機械化騎兵部隊」といえる快速(チェレーレ)師団が3個、1940(昭和15)年に編成されました。
ただ、このような快速師団であっても、軽戦車や対戦車砲などを装備する一方、従来の騎兵連隊が2個程度、相変わらず残っていました。また、快速師団以外の独立した騎兵連隊もまだ数多く存在しており、1940(昭和15)年にイタリアが第2次大戦に参戦した段階で16個連隊を数えています。
1941(昭和16)年6月にドイツ軍によるソビエト連邦侵攻、いわゆる独ソ戦が勃発すると、ドイツと軍事同盟を結んでいたイタリアも、機械化された第3快速師団を含む総兵員約6万2000名の「イタリア・ロシア戦線派遣軍団」を北の大地に送り込みます。
翌1942(昭和17)年、ドイツはロシア南部の地下資源に目を向け、夏期攻勢「ブラウ(青)」作戦を計画。このドイツ軍の攻勢にイタリア・ロシア戦線派遣軍団も呼応します。そのなかで、ドネツ河を越えてドン河を目指したイタリア軍の第3快速師団は、8月にソ連戦車部隊に対して火炎瓶で果敢に立ち向かい、5日間の白兵戦で多数の戦車を炎上撃破する戦果を上げました。
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