日本外交の勝利? ロンドン軍縮条約での巡洋艦保有量 計算したらアメリカ上回った!

1930年に発効したロンドン海軍軍縮条約は、各種巡洋艦を始めとした補助艦艇の保有量にも制限を設けるものでした。日本は批はしたものの、したたかさを見せて制限以上に持ちました。その数はアメリカ以上だったようです。

老獪な欧米各国、建造を急ぎ過ぎた日本

 1923(大正12)年に発効したワシントン海軍軍縮条約(以下ワシントン条約)は、各国が保有する戦艦と巡洋戦艦を合わせたいわゆる主力艦、そして航空母艦などの保有量に制限をかけました。日本は、アメリカやイギリスに対して6割の保有量とされたものの、巡洋艦や駆逐艦などのいわゆる補助艦、そして潜水艦の保有量に制限がなかったことから、この部分で建造競争が始まったのです。

 この結果、のちに補助艦などで新たな制限が設けられることとなりました。この補助艦などの制限を設けるために結ばれたのがロンドン海軍軍縮条約だったのですが、重巡洋艦の保有比率が対アメリカの6割に抑えられたことが、日本の世論を巻き込んだ大問題に発展します。こうした経緯から、一般的には日本にとって不利な不平等条約と思われる向きもあったりするものの、内容を精査してみると、日本はしたたかな振る舞いも見せていました。

Large 211205 london 01

拡大画像

旧日本海軍の重巡洋艦「古鷹」(画像:アメリカ海軍)。

 大正時代、ワシントン条約が発効した当初の建造競争は、ゆっくりとしたものでした。前述したように1923(大正12)年に条約が発効したものの、イギリスとフランスは1924(大正13)年、アメリカとイタリアは1925(大正14)年まで新型艦の建造には着手しておらず、いわば他国の動向を注視している状況でした。

 日本のみ、ワシントン会議最終日前日の、1922(大正11)年2月5日に古鷹型巡洋艦2隻の建造を開始。翌1923(大正12)年にも、準同型といえる青葉型巡洋艦2隻の建造に取り掛かります。

 筆者(安藤昌季:乗りものライター)は、この古鷹型および青葉型の建造着手には疑問を持ちます。

 古鷹型は、50口径200mm砲を6門装備し、最大速力34.5ノット(約63.9km/h)で、イギリスのホーキング級、アメリカのオマハ級といった従来型の巡洋艦を上回る性能ではあります。しかし、古鷹型を見てから建造した、アメリカのペンサコラ級巡洋艦は、55口径203mm砲10門、最大速力は32.5ノット(約60.2km/h)で、砲撃力では古鷹型や青葉型を圧倒し、防御力でもやや勝るものでした。

 いうなれば古鷹型および青葉型は公称7100トン(実際は7950トン)と過度な小型化が裏目に出た、中途半端な艦だったのです。

【立派な艦容】重巡洋艦「青葉」「高雄」「利根」ほか

最新記事

コメント

Leave a Reply to 匿名 Cancel reply

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシー利用規約が適用されます。

2件のコメント

  1. >>日本海軍と世論(当時の新聞は軒並み7割死守論を展開)は「重巡6割では国防が成立しない」と強い不満を抱きました。

    当時も今も元凶はマスコミだというのがよくわかるよね。
    ここでマスコミが煽って海軍の青年将校が禍根を抱くようになり、これが5.15事件へと続いて行くんだよね。
    もしここでマスコミが煽らなければ、もしここでマスコミが軍縮成る、これで世界的な衝突を回避できる、と諸手で喜ぶ論調を展開したら、5.15事件はなかったかもしれないわけで、マスコミは気軽に政府批判を展開しただけと嘯くかもしれないが、どう見てもこ政情不安定にした火付け役をやってるよね。

  2. この時代、何故日本の軍部のトップは、逆転の発想が出来なかったのか?対英米7割という補助艦保有を譲れないということに、拘だわりすぎだった。当時の日本の国力や、経済力で本当に対英米7割もの海軍力を保持・運用できるだけの力が日本に無かったし、山本五十六の盟友堀悌吉の主張した通り、英米は、日本海軍の1.4倍しか保有できないという足枷を嵌られるという発想が出来ていたら、、、あるいは、歴史は変わっていたかもしれなかったのですが、、、やれ、統帥権干犯などという、イケイケどんどんだけに進んだから、その結果がどうなったか、、、現代にも大きな教訓を示していると思うのですが、、、