空自ジェット偵察の始祖「RF-86F」元は倉庫にあった余剰機 パイロットよく頑張った15年
旧海軍陸攻を生んだ日本人技師のアイデア
話は自衛隊が創設される前に起きた朝鮮戦争にさかのぼります。
1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争においてアメリカ空軍は、さまざまな偵察機を朝鮮半島上空へ飛ばしましたが、それらは北朝鮮空軍のジェット戦闘機MiG-15よりスピードが遅いものばかりで、作戦には大変な危険がともなっていました。そのため、撃墜されることが多く、増えるばかりの犠牲に悩まされることとなったのです。
たまらずアメリカ空軍は、当時最新のノースアメリカンF-86A「セイバー」戦闘機を応急改造した偵察機RF-86Aを実戦に投入します。しかし構造の欠陥から振動が大きく、満足のいく写真撮影ができませんでした。
そこで在日アメリカ軍勤務の日本人技師チームに改良が命じられました。チーフはかつて三菱で旧日本海軍向けに開発した九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機などの設計主任を務めた本庄季郎技師でした。
「ヘイメーカー」と呼ばれた日本人チームの設計案は成績良好で、すでに朝鮮戦争は停戦していたにもかかわらず20機ほどが改造されたと言われます。
この「ヘイメーカー」の図面資料が日本に入ってきたのをきっかけに、“ある理由”で倉庫に眠っていたF-86F戦闘機18機を改造して生まれたのが、航空自衛隊初の偵察機RF-86Fでした。
とはいえ当時、新鋭の戦闘機であったF-86Fが倉庫で眠っていた理由とはなんだったのか。それは細かな形式の違い、すなわち機体構造の違いでした。
災害派遣での出動では、RF-4Eの時代でしたが有珠山噴火の際に火口を上空から撮影し、百里で現像後T-4で千歳に輸送、北大に引き渡す作戦をニュース番組で放映してました。
グロホの運用ではどう対応するんでしょうね。
アメリカ空軍から州軍航空隊へ譲渡されて、その余剰分が来た感じかなぁ、という印象を得ました。州軍航空隊でもいらないという戦闘機をリサイクルしたのではないかと。
航空自衛隊では、1982年まで使用されていたというのですから、これも息の長い戦闘機ですね。