“成田”じゃなかったかも? 羽田の永遠のライバル? 「成田空港」44歳でさらに成長中

羽田空港とならび、首都圏の巨大国際空港として運用されている成田空港は、現在に至るまで紆余曲折の歴史をもつ場所として知られています。その歴史を振り返っていきます。

冨里・八街空港案も?

 1978年5月20日は、成田空港(当時は新東京国際空港)が開港した日です。現在は、羽田空港とならぶ、首都圏の巨大国際空港として運用されています。ただ成田空港の場合、開港までだけでなく、開港後も、紆余曲折を経験してきた空港として知られています。

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成田空港に着陸する旅客機(乗りものニュース編集部撮影)。

 今から50年ほど前の羽田空港は、旅客機のジェット化や航空便数増加などを背景に、キャパシティの限界を迎えつつあり、その対応に迫られていました。羽田空港の海上を埋め立てる案なども考えられましたが、工事が困難であったことや、拡張した場合の着陸ルートとしてアメリカ空軍基地である横田飛行場を通る可能性があったことから、羽田以外の場所に新たな空港を設置することとなりました。

 首都圏で新空港建設を実現できる場所として、茨城県の霞ケ浦の埋め立て、神奈川県横浜市の金沢八景周辺、千葉県の浦安沖や富里市と八街市周辺などの候補地が検討されました。その後、一度は富里・八街空港の建設が内定します。しかしこの案は、地元住民の反対にあったことからとん挫。そこで、その東側の成田市三里塚周辺が、宮内庁の御料牧場の敷地を一部含んでいたことから、用地取得のハードルが下がると判断され、そこに新空港を作る方向で再決定されています。

 ただ、こちらでも地元住民と過激派による強い反対運動が起こり、三里塚や天神峯などで反対派と警察の衝突が起こりましたが、最低限の滑走路1本を運用するための土地を強制収容する代執行が実施され、一期工事が進められました。

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