デカい大砲は鉄道で! 日本軍も作った「列車砲」の使いみち 東京から牛久大仏狙える!?

満州へ行った日本製列車砲、どうなった?

 そうしたなか、旧ソ連との国境紛争は1938(昭和13)年の張虎峰(ちょうこほう)事件、翌1939(昭和14)年のノモンハン事件で現実のものになります。この一連の戦いを受けて旧日本陸軍は、より一層防備を強化するため、太平洋戦争の開戦前に「九〇式二十四糎列車加農」を虎頭要塞に配備することにしました。

 九〇式二十四糎列車加農は、1942(昭和17)年に列車と船で満洲に渡っています。なお、このとき九〇式二十四糎列車加農とともに「試製四十一糎榴弾砲」も虎頭要塞に運ばれ、両砲とも砲台に転用されました。

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1938(昭和13)年に起きた張虎峰事件で休戦ラインを協議する日ソ両軍の将校(時実雅信所蔵)。

 しばらくは出番のなかった2つの巨砲ですが、終戦間近の1945(昭和20)年8月9日、旧ソ連軍が満州に侵攻したことで、その威力を発揮するときが来ました。残念ながら九〇式二十四糎列車加農は移送するため分解されており、砲撃を行うことができなかったものの、もう一方の試製四十一糎榴弾砲は、要塞に近づく旧ソ連軍に対して最初で最後の砲撃を行い、絶大な破壊力を見せつけます。

 試製四十一糎榴弾砲は砲身が駄目になるまで砲撃を続け、旧ソ連の大動脈であるシベリア鉄道の鉄橋を破壊するなどの戦果をあげたといわれています。こうして日本の列車砲は、その役目を完全に終えたのでした。

 終戦後、2つの大砲は旧ソ連軍に接収されたとみられますが、その後どうなったかは今も不明です。

【了】

【大きさ段違い!】世界最大級の自走砲 ドイツの80cm列車砲「グスタフ」の異様さ

Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)

軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。

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