元・日本最長の路線バス「名金線」最後の県境越え区間が消滅 10時間かかった路線の今
開通翌日にもう運休?悪路を縫って観光客を運んだ名金急行線
名古屋から飛騨の奥地、金沢を直通する名金急行線によって環境が大きく変わったのは、やはり沿線にある白川郷・五箇山などの地域でしょう。
積雪を防ぐ独特の屋根形状を持つ「合掌造り」集落で知られるこのエリアは、その道路状況から長らく“鳥も馬も通わぬ“とさえ言われる秘境でもあり、その景観も知る人ぞ知る存在でした。名古屋・金沢とつながる直通バスの開通によって来訪者が増加し、その景観も徐々に知られるようになっていったのです。
その後、1995(平成7)年にユネスコより世界文化遺産に認定され、国内外から来訪者がさらに増えていきました。このエリアが観光地としての役割を持ったことは、高山や金沢などを回遊する「昇竜道」ルート(中部地方を竜に見立てた周遊ルート)が形成されるきっかけになったと言えるでしょう。
悪路のため移動そのものが困難を極めたこの地域では、人々の移動手段としてだけでなく、貨物や小荷物の輸送にもバスが活躍していました。車体には郵便差出箱が設置され、投函できる場所が少ない地域で「走る郵便ポスト」としての機能も果たしていたといいます。
しかし飛騨路を越える道程は急カーブや勾配が続き、その運行は困難を極めていました。冬場には積雪に悩まされ、1966(昭和41)年12月1日に運行を開始した翌日には、名古屋を出たバスが雪のため牧戸(岐阜県旧荘川村、現高山市)で折り返しを余儀なくされ、早々に翌春まで大半の区間で運休が決まったとのエピソードも。
のちにレイルウェイ・ライターとして活躍する種村直樹氏は、開業当時の様子を毎日新聞記者として体験し、書き残しています。また名古屋~金沢間の通し運行を開始する前の「金白線」(金沢~美濃白鳥)にも乗車し、私財を投じて沿線に2000本もの桜を植樹した名物車掌・佐藤良二氏が乗務するバスに乗車されたこともあるそうです。
名金急行線は1993(平成5)年にJRバス(東海、西日本)が、2000(平成12)に名鉄バスが名古屋~金沢間の通し運行を中止。その後、他事業者への移管・廃止などが相次ぎ、全ルートを乗り継ぐことはできなくなりました。
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