消えゆく昭和の「民衆駅」 駅ビルのルーツ 全国主要駅の風景はかくして作られた
東京駅の風景も民衆駅が作り出した?
民衆駅第一号は、1950(昭和25)年に開業した東海道本線の豊橋駅でした。木造モルタル造の2階建てで、乗車場と降車場をつなぐ1階の通路沿いに食堂や喫茶、理髪店、果実店などの小規模店舗が並び、2階には地元の豊栄百貨店が出店していました。
同年には東京の池袋駅西口にも民衆駅が開業し、巨額を出資した東横百貨店(現・東急百貨店)が入居しました。なお、この池袋の百貨店は後に東武百貨店へ売却されます。
豊橋と池袋、2つの民衆駅誕生が引き金となり、東京都内や地方の主要都市などの好立地にある駅で、民衆駅が次々に建設されます。1952(昭和27)年には秋葉原駅、尾張一宮駅、札幌駅、西鹿児島(現・鹿児島中央)駅、福井駅、翌53(昭和28)年には富山駅、金沢駅、沼津駅、松江駅と増え、その数は合計50か所以上にのぼりました。
なかでも1954(昭和29)年に開業した東京駅八重洲口は、民衆駅の代表格です。首都・東京の玄関口にふさわしく、日本初の高層駅舎として計画されました。建築基準法に抵触するため開業当初は地上6階(のちに12階へ増築)だったものの、大丸東京店がキーテナントとして入居し、高架下には老舗有名店が軒を連ねた「東京駅名店街」もオープン。ここでの商業的な成功が、その後の全国における駅ビル運営に影響を与えました。
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