「YS-11」はなぜ日本人を惹きつけるのか? 戦後初の国産旅客機が飛んで60年 分かれる評価

戦後初、そして戦後唯一の国産旅客機、YS-11の初飛行から60年が経過しました。同機の生涯で、どのように評価が変わってきたのでしょうか。賛否両論あるその歴史を見ていきます。

182機が製造 360億円超の赤字で批判も

 戦後初にして、唯一実用化された国産旅客機だったYS-11が1962年8月30日に初飛行してから60年を迎えます。今や飛んでいる機体は、航空自衛隊にごくわずか残るのみとなりました。まもなく姿を消すYS-11は、その生涯でどのように、評価が変わったのでしょうか。

 YS-11は初飛行後、1965年に運用開始。1973年までに182機がつくられました。地方空港のジェット化が進んで以降は、主に離島やコミューター路線で飛び、2006年に国内の定期旅客路線から引退しました。

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佐賀空港のYS-11旅客機(乗りものニュース編集部撮影)。」

 戦後の旅客機製造は日本にとって初めてだっただけに、YS-11は多くの苦労を経験しました。とくに、製造にともない360億円超まで膨れ上がった赤字は批判を浴びました。その後、後継機となる国産ジェット旅客機の開発計画もあったものの実現せず、日本の空に欧米の新しいジェット旅客機が次々と登場すると、YS-11への関心は薄れていきました。

 そんなYS-11に再び注目の目が集まりだしたのは、主に1990年代の半ばくらいからだったでしょう。この頃にYS-11を振り返った書籍が次々刊行されていきます。計画の礎を築いた戦前戦中の大物設計者はそれ以前かこの頃に高齢のため亡くなり、設計を指揮した幹部は引退し、製造やセールスが盛んな頃に若かった社員も定年退職しだした頃でした。

 就航してからは、「飛行機はつくれても旅客機はつくれない」と揶揄されもしたYS-11でしたが、開発元の日本航空機製造と、ユーザーとなった航空会社は一人前に育て上げたのです。YS-11は、戦後の航空史にとっても“初づくし”の飛行機でした。それは、開発それ自体はもちろんのこと、航空会社へのセールス、売り込みも初の経験だったのです。必死に営業し、契約が成立した時の感激は言葉に表せないものだったのは間違いありません。

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