かつては「極道航空」? 創立70周年 ANA初期の“波乱万丈” 今も生きる攻めのスローガン!
いまや国内2大航空会社として大きく成長したANA。実は同社の歴史を振り返ると、辛辣なあだ名で揶揄されたほどの苦難の時代を経験しています。どのような苦労があったのでしょうか。
「極道航空」「日減り航空」と呼ばれた創業初期
創立70周年を迎えたANA(全日空)は、1952年12月にルーツとなる2社が設立され、5年後の12月にそれらが合併して誕生した会社です。この70年で同社は成長を続け、2022年9月に英調査会社(スカイトラックス社)が発表した満足度ランキングで世界4位の好成績を納めるなど、いまやその地位は世界的にも確固たるものといえるでしょう。そんな今の姿からは想像できないほど苦難の時代も過去にはありました。
ANAの前身である日本ヘリコプター輸送は、敗戦後の航空再開(渡航禁止期間の解除)と同年の1952年12月27日に設立されました。後に合併する極東航空はその前日の26日に誕生。そして、両社は合併登記を行い、1957年12月1日にANA、つまり全日本空輸となりました。
そんな2社は、当初各所から情け容赦のないあだ名が付けられました。たとえば極東航空は、使用機材だったハンドレページ・マラソンが思うように稼働せず出資会社に心労をかけたため「極道息子」という熟語になぞらえて「極道航空」。日本ヘリコプター輸送は、通称である「日ペリ」をもじって「日減り航空」と揶揄されています。
こういった痛烈な言葉は、あまりにズバリ的を得てしまったものだったため、社員も怒るに怒れなかったと伝わっています。当時、日ペリの社員はJALの3倍以上働き給料は3分の1だったとも。コロナ禍でもANA内で聞かれた「現在窮乏、将来有望」は、日ペリの創始者の一人、美土路昌一氏が、この当時スローガンとして発案したものです。
こういった苦労話は、年配者には懐かしいレオナルド・ダ・ヴィンチ考案のヘリコプターを図案化した、かつての社章にも残されています。
日ペリ航空は名鉄の子会社だった。
ANAの2レターコードのNHは日本ヘリコプターの略
航空関係者の間で常識なのかどうか知らないが、極道航空、日減り航空と呼ばれていたことを示す紙の文献があれば知りたいものだ。