かつては「極道航空」? 創立70周年 ANA初期の“波乱万丈” 今も生きる攻めのスローガン!
旧社章「ダヴィンチのヘリ」にも苦労話が
かつてのANAの社章が誕生したのは、日ペリが誕生する3か月ほど前だったといいます。設立から20年後の1972年12月1日に社史編集委員会が発行した「大空へ二十年」に残されたエピソードによると、二科会会員の画家が出したヘリコプター案に決まりはしたものの、デザイン料を決める際に、幹部がつぎのような一言を放ったと記録されています。
「なに、5万円?高すぎる、値切って来い」。
当時の5万円をインターネットで検索し現在の貨幣価値に換算すると、25万円から30万円のようです。現在のANAのような大手航空会社が、会社の根幹をなす社章デザインに、それだけの額を値切ると聞けばどうでしょう。
いまでこそ、ANAは「国内最大手の航空会社」と称されるようにもなりましたが、1966年2月、羽田空港沖でボーイング727の墜落事故が起きた際には、「JAL(日本航空)に吸収合併されるのでは」とささやく社員もいたと言います。その後「国内の大手航空会社といえば、JALとANA」となるほど成長を遂げたものの、何かにつけて比べられ、そのうえ挙げられるのはいつもJALの次。それだけに、社員は一致団結してアグレッシブに、国際チャーター便を運航し、そして1986年に念願の国際定期便と東京~グアム線を開設するほどに運航規模を拡大しました。
筆者は、平成の時代でも、ANAのアグレッシブさを感じることができました。同じタイプの飛行機に乗っていても、ANAとJALは機内の雰囲気に違いがあり、JALの客室乗務員はおしとやかで、ANAは元気いっぱい。それも合わせて、旅客も2社それぞれのファンに分かれているようでした。
令和の今、経営再建を経験したJALは、苦難を経験したせいでしょうか、積極性は強くなっているように思われます。そして昭和とは国内の航空会社の勢力図も大きく変わり、LCC(格安航空会社)を始めとする後発系航空会社が続々と誕生し、もはや旅客の争奪戦では大きなライバルとなりつつあります。
大きく成長したANAがこれらのライバルたちにどう挑むのでしょうか。現在はコロナ禍ですが、ANAのはじめ国内航空会社はこれに負けず行き残ってきました。これからの未来、ANAがどのような“航跡”を描いてくれるのか楽しみです。
【了】
Writer: 相良静造(航空ジャーナリスト)
さがら せいぞう。航空月刊誌を中心に、軍民を問わず航空関係の執筆を続ける。著書に、航空自衛隊の戦闘機選定の歴史を追った「F-Xの真実」(秀和システム)がある。
日ペリ航空は名鉄の子会社だった。
ANAの2レターコードのNHは日本ヘリコプターの略
航空関係者の間で常識なのかどうか知らないが、極道航空、日減り航空と呼ばれていたことを示す紙の文献があれば知りたいものだ。