多摩モノレール延伸の武蔵村山「鉄道100年お預け」の歴史 “西武新宿行き”なぜ実現せず
「不況」「横田基地に土地提供」「汚職続発」武蔵村山の“お預け鉄道”事情
このころ、第一次世界大戦後のバブルが崩壊、時代はいわゆる“昭和恐慌”に突入します。資金難に陥った旧西武鉄道は度重なる着工・工事中止がたたって免許が失効、さらに戦争もあって建設はそのまま棚上げに。鉄道路線としては「村山線」の名称を残したまま、“村山には行かないけど東村山には行く”村山線として営業を続けていました。
終戦後の1945(昭和20)年11月には旧・武蔵野鉄道が中心となる現在の西武鉄道の体制となり、7年後の1952(昭和27)年、高田馬場~西武新宿間の延伸が契機となり、村山線は東村山を境に「新宿線」「西武園線」として切り離されます。「村山線」の名前はここで消滅し、武蔵村山・箱根ケ崎にレールが伸びることなく今に至ります。
武蔵村山にまつわる鉄道計画は、西武線だけではありません。また貨物鉄道だけは、以前から存在していました。貯水池建設のために開業したものの、(線路幅が狭く設備も貧弱な)軽便鉄道で、戦後に途中区間が米軍基地内となったため旅客化されなかった「羽村山口軽便鉄道」がそれです。
このほか、認可を受けた直後に運輸大臣(当時)への贈収賄が発覚し、多量の逮捕者を出したのち、着工前に会社ごと消滅した「武州鉄道」(吉祥寺~箱根ケ崎~秩父)も、今の武蔵村山市域を経由するはずでした。
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