梅田の広大な貨物駅 なぜ長く残った 「大阪最後の一等地」が未だ空白の理由 どう変化?
問題解決まで20年以上 決め手は?
清算事業団は、先行して梅田駅南西部(西梅田地区)の土地を売却し、 1990年代にハービスOSAKAや大型ホテルなどが完成します。続いて大阪駅の北側にあったJR西日本本社跡地を売却し、ヨドバシカメラが巨艦店をオープンしました。
吹田の新貨物駅について、大阪府や吹田市、JR貨物など関係5者で建設着手の協定書が交わされたのは2006(平成18)年のことです。
吹田操車場跡50ヘクタールのうち、27ヘクタールが新貨物駅用地、残る23ヘクタールが吹田市と摂津市のまちづくり用地とする協定が結ばれました。新貨物駅の取扱量は梅田駅の50%を上限とし、トラックの台数にも制限が設けられました。
残りの貨物機能は関西本線百済駅(大阪市東住吉区)に移転することになり、駅構内や貨物線の設備改良が決定します。大阪市は、梅田再開発の恩恵を受けることを踏まえて受け入れを容認しました。
次々と進んでいった梅田駅の再開発
梅田駅の東側7ヘクタールは、うめきた1期エリアとして先に整備され、2013(平成25)年4月、グランフロント大阪がオープンします。吹田貨物ターミナル駅と百済駅の工事は同年3月に完成し、梅田駅は廃止されます。分割民営化から26年、大阪都心の巨大貨物駅はついに機能を停止しました。
そこから駅西側の貨物施設の解体が行われ、うめきた2期エリア9ヘクタールの整地が始まります。4.6ヘクタールは三菱地所や阪急などに売却され、残りは緑地となります。
また、梅田貨物線(新大阪~新駅~福島)のうち2.3kmは地下線に切り替えられ、「うめきた新駅」(地下ホーム)が大阪駅の北西部に設置されることも正式決定します。
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