梅田の広大な貨物駅 なぜ長く残った 「大阪最後の一等地」が未だ空白の理由 どう変化?

「梅田貨物駅の機能移転」貨物縮小に安堵した街は反発

 1982(昭和57)年には梅田駅南西部の施設を使用停止します。しかし、同年3月末の国鉄の累積赤字は16兆円を超え、新規の設備投資は全面的に凍結されてしまいます。

 転換点となったのは、1984(昭和59)年です。国鉄は貨物輸送の大幅な方針転換を行い、操車場で貨車の入換や編成の組み立てをする従来の輸送方式を全廃しました。

 国鉄と大阪市は梅田駅の貨物取扱の郊外移転を検討します。候補地となったのが、吹田操車場です。

 吹田操車場は東海道本線吹田駅・岸部駅付近にあった日本最大の貨物ヤードでした。最盛期には1日6000両の貨車が、朝昼晩、深夜も含めて広大な構内を行き来していましたが、操車場廃止後、貨車の入換は大幅に減り、静かな夜が訪れました。

 ところが、吹田新貨物駅構想が報道されると、地元住民や市役所は猛反発しました。新貨物駅が整備されると、周辺の住環境は確実に悪化するからです。

 1987(昭和62)年の国鉄分割民営化後、梅田駅はJR貨物の貨物駅として引き続き使用されましたが、土地は国鉄清算事業団に移管されました。1989(平成元)年から特急「くろしお」が、新大阪駅と大阪環状線を結ぶ短絡線として梅田貨物線を走るようになりました。

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昔の吹田操車場跡にできた吹田貨物ターミナル駅。梅田駅の機能移転で2013年開業(森口誠之撮影)。

 清算事業団は、吹田市と摂津市に吹田操車場跡での新貨物駅設置を打診します。梅田駅の取扱量の85%を吹田で取り扱うとの提案でした。

 地元では反対運動が広がりました。ポイントは、

・吹田市と摂津市の要望する再開発構想の空間を確保できるか。
・貨物駅を発着する機関車やトラックの騒音・振動・大気汚染問題は解決できるか。

の2点です。議論は膠着し、なかなか結論は出ませんでした。

【地図/写真】うめきたプロジェクトと新駅/現役当時の貨物駅

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