東京モノレール 謎の"熱海延伸"計画とは ホントは千葉から海沿いぐるり!? 黎明期の「明るすぎる夢」
「壮大な夢」新たにぶち上げたものの…
続いて日本高架電鉄は路線網の拡大に乗り出します。1962(昭和37)年3月に蒲田駅前商店振興会の誘致に応えて蒲田~羽田空港間を申請。9月に羽田空港~横浜間の免許を申請し「羽田空港を軸に新橋、蒲田、横浜の三方面へ分岐する」という路線ネットワークを目指しました。
同社はさらに横浜からの南下も計画していました。犬丸はインタビュー記事で、かつての大和観光のように「熱海方面への延伸構想」を披露しており、実際に同年5月に同社や日立の出資で「熱海モノレール」を設立し、熱海側の受け口となる熱海駅前~ロープウェイ前間の免許を申請しています(1963年に免許されるも断念)。
ここで思い出されるのは大和観光で鈴木彌一郎が抱いていた壮大な野望です。実は彼は鮎川らと合同し、日本高架電鉄に改称された後も副社長として留任しており、同社はこの頃、彼が大和観光で構想した熱海延伸、千葉工業地域延伸を踏襲する将来構想を公表しています。
しかし鈴木は同年末に副社長を退任し追われるように会社を去ります。その後は上述のように熱海方面の延伸構想が語られることはあれども、千葉方面は触れられなくなっていることから見ても、鈴木の存在が日本高架電鉄の計画に一定の影響を与えていたことは確かでしょう。
日本高架電鉄は1964(昭和39)年5月に東京モノレールに改称、現在に至ります。起点駅を新橋から浜松町へ変更するなど紆余曲折を経ながらも、急ピッチで工事を進め、東京オリンピックの1か月前の1964年9月17日に開業。浜松町~羽田空港間を15分で結び、オリンピック輸送を支えました。
それまで米ディズニーリゾートラインなど「アトラクション、観光用のモノレール」は存在しましたが、東京モノレールは世界初の本格的な「都市交通機関としてのモノレール」でした。
しかしオリンピック後の経営は厳しく、東京モノレールはすぐに経営危機に陥ります。壮大な延伸計画どころの話ではなくなり、他社のモノレール計画もしぼんでいきました。日本でモノレールが本格的に普及するのは1970年代、道路の使用や建設費補助制度が整理された「都市モノレール」が確立してからのことです。
【了】
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
熱海駅前のビルの地下に唯一完成したモノレール駅が今なお眠っていることを書かないと
記事として画竜点睛を欠くのでは?