戦争激化でも「関門トンネル」だけは造られたワケ もうすぐ80歳 旧陸軍が夢想した壮大な計画

陸軍が後押ししたのは大陸戦略で必要だったから?

 なぜ陸軍がこの計画を推したのかというと、本州から九州、壱岐、対馬、さらに日本が併合していた朝鮮半島を海底トンネルで繋げるという目標に近づくのでは、という思惑がありました。これは「大東亜縦貫鉄道構想」と呼ばれるもので、最終的にはこの鉄道網を満州鉄道につなげることで、満州から九州までつながる壮大な鉄道ネットワークを構築しようとしていました。

 空前の規模の計画ですが、完成すれば、陸軍は大陸向けの軍需品輸送の多くを鉄道で行えるということで、海上輸送よりも安定的な補給網を確保できることになります。

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戦後の関門トンネル(画像:Tam0031[CC BY-SA 4.0])。

 関門トンネルの起工直後に、大陸では中華民国との間で日中戦争が発生し、戦時体制となりますが、トンネル工事は続けられ、1939(昭和14)年には試掘坑道が貫通しました。1941(昭和16)年7月10日には下り線の本坑が貫通しましますが、この本坑の工事には、シールドマシンという円筒形の掘削機を使った「シールド工法」が採用されましたが、これを成功させるため、関係がいちじるしく悪化していたアメリカにまで視察へ行ったほどです。

 上り線のトンネル開通は前出の通り1944(昭和19)年8月8日で、同年9月9日から複線での運用が開始されました。この時期は、第2次世界大戦も終盤で日本の敗色はすでに濃厚になり、サイパン島を喪失し、本土空襲の危機感も高まっていました。

 本土空襲が始まると同時に、日本列島の島々を行き来している連絡船も狙われるようになり、さらにアメリカ軍の「飢餓作戦」とよばれる機雷による海上封鎖作戦で、日本の海上輸送力は極端に低下します。そこで重要な地位を得たのが、完成したばかりの関門トンネルで、本州と九州間の石炭や物資、さらに兵員や兵器の輸送を比較的、安全に行うことができました。

 アメリカはトンネルを破壊することも計画したようですが、幸い破壊されずに残り、関門トンネルは戦後も日本の交通網における要所のひとつを担い、戦後発展に協力。同トンネルで得られた土木技術は、戦後日本の貴重な財産となりました。

【了】

【え、関門海峡を歩いて渡れる?】クルマが走る関門国道トンネルは歩行者も利用できる(写真)

Writer: 斎藤雅道(ライター/編集者)

ミリタリー、芸能、グルメ、自動車、歴史、映画、テレビ、健康ネタなどなど、女性向けコスメ以外は基本やるなんでも屋ライター。一応、得意分野はホビー、アニメ、ゲームなどのサブカルネタ。

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