青函連絡船はなぜ爆撃されたのか 戦時の鉄道と津軽海峡越え その知られざる“戦い”
青函トンネルができる以前、本州と北海道をつなぐ重要な交通インフラとして「青函連絡船」が利用されてきました。戦時中には戦略物資である石炭を輸送するうえでも重要でしたが、当然、アメリカ軍の標的にもなりました。
「北の大動脈」が「戦争の大動脈」に 青函連絡船の重責
北海道と本州をつなぐ鉄道フェリーとして1988(昭和63)年まで運航されていた「青函連絡船」は、今では日本の古きよき旅の情景のひとつとして、しばしば懐古的に語られています。
しかし、かつて青函連絡船は、戦争のためになくてならない存在でもありました。太平洋戦争当時、連絡船として建造されたのが「戦時標準船W型」、一般的には「第五青函丸」型と呼ばれる船舶でした。ここでは、戦争に翻弄された青函連絡船の知られざる運命を振り返ってみましょう。
戦中に青函連絡船が担った重要な役割、それは北海道の石炭を本州に運ぶことでした。当時、石炭は「産業の米」といわれ、あらゆる産業に使用されるとともに国内で唯一、自給可能な「戦略物資」でした。
兵器に必要な鉄鋼を生産するには、石炭が欠かせません。また、たとえば南方から運び込んだボーキサイトを航空機の材料であるジュラルミン(アルミ合金)に製錬する場合、膨大な電気が必要となります。その電力も石炭火力発電所で賄われていたわけですから、当時における石炭の重要性は現代人が考えるよりも大きかったといえます。また青函連絡船それ自体も石炭タービン船であり、石炭を燃料にしていました。
戦前、石炭はそのほとんどが九州と北海道で採掘され、輸送コストが安い船で北海道から京浜工業地帯をはじめ東日本の各地に送り出されていました。
しかし、戦争が激しくなると船舶は相次いで徴傭(ちょうよう:軍にチャーターされて戦地にかり出されること)され、さらにアメリカ軍潜水艦の脅威が内航船にも及んできました。国内流通は鉄道に頼るしかなくなりますが、青函トンネルが存在しない当時、北海道と本州を隔てる津軽海峡は、フェリーで貨車を航送してつながなくてはなりませんでした。こうして、危険な海路をゆく青函連絡船は、ますますその重要性を増していくことになりました。
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