メトロの前身「営団」が消滅免れた理由 最大の敵はGHQより「東京都」!? 丸ノ内線開業までの「壮絶な戦い」
「地下鉄奪還!」東京都の猛烈な「消滅工作」が営団を襲う
しかしGHQ以上に「交通営団廃止論」を主張したのが東京都です。元々、東京の地下鉄網は「東京市が主体となって整備する」計画で、1925(大正14)年に策定された地下鉄5路線のうち4路線は、市に免許が与えられました。その後財源不足で着工できず、結局は民間会社に免許を譲渡してしまいました。
戦中の交通営団設立をめぐる議論でも東京市は地下鉄の「市有市営」を主張しましたが、この「免許がありながら全く建設できなかった」事実を指摘されて退けられました。しかし戦争が終結し、戦前戦中に設立された各種統制団体が順次、解体されたことから、東京都はイニシアチブを奪還すべく「非民主的な交通営団も解体すべき」と主張したのです。
たしかに、都市計画と一体的に建設できること、道路管理者と一体であること、資金調達の面で有利であること、路面交通(路面電車・バス)と一体的に経営すべきであることなど、完全に公営の地下鉄にはメリットがあります。それゆえ実際、その後に東京以外で整備された地下鉄はいずれも市営でした。
都は1946(昭和21)年8月の東京地方特別都市計画委員会で「地下鉄は都において建設すべし」との希望条項を提起し、8対3の多数で可決されています(反対は運輸省と交通営団)。都議会は9月12日に地下鉄都営実現に関する意見書を決議し、GHQに「地下鉄買収」の陳情を開始。翌10月には1947(昭和22)年以降3か年で新宿~赤坂見附間、池袋~万世橋間を建設する「都営地下鉄建設計画」を立案しました。
こうした動きを受けて運輸省は衆議院議員5人、運輸省5人、東京都5人からなる地下鉄問題協議会を設置し、検討を開始します。議員と東京都、さらに都市計画を管轄する内務省が都営案を支持したことから、「帝都高速度交通営団法廃止に関する法律案」が取りまとめられました。1946(昭和21)年10月25日の朝日新聞は「地下鉄の買収協議 大勢は都営実現へ」と報じており、世間も都営が優勢と見ていたことが分かります。
しかし運輸省は、戦災復興事業を抱える都に地下鉄を建設する余裕はないこと、政治的に地下鉄の建設が左右される可能性があること、かつて免許を有しながら地下鉄を建設できなかったこと、地下鉄建設の経験と技術に欠けていることなどを挙げ、都営案に強硬に反対しました。
結局、交通営団廃止法案は国会に上程すらされず、『都営地下鉄建設史』はこれを「闇に葬られた」と表現していますが、一方の『営団地下鉄五十年史』は「この時点での東京都による営団廃止の動きは、政府の反対により実現するところとならなかった」とサラリと記しています。
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