「世界一の戦闘機エースパイロット」驚異の記録 ドイツ空軍“伝説のエリート部隊”の盛衰
第2次世界大戦で撃墜数が突出して大きいのが、ドイツ空軍の戦闘機パイロットでした。中でも東部戦線で戦ったエリート部隊「第52戦闘航空団」のエースパイロットたちは驚異的な撃墜記録で、いまなお伝説として語られています。
エースの中のエースが所属した「第52戦闘航空団」
第2次世界大戦における空の戦いでは、多くの戦闘機エースパイロットが生まれました。特にドイツ空軍は撃墜数100機以上のエースが100人を超え、200機以上撃墜のエースも15人と、その記録は突出しています。その中でも多くの傑出したエースを輩出したことで特に有名なのが、東部戦線でソ連軍相手に戦った「第52戦闘航空団」でした。
しかし、空の戦いで大戦果をあげたドイツ軍は、結局、東部戦線を制することはできませんでした。本稿では、ドイツの敗北に至るまでの流れを、東部戦線でのドイツ空軍エース部隊の戦いを通して検証します。
1939(昭和14)年9月の開戦当初、第52戦闘航空団は西部戦線に配備されていました。ドイツ軍のフランス進攻における地上部隊の航空支援や、イギリス本土を爆撃したバトル・オブ・ブリテンに投入されています。
この時期の主力戦闘機はメッサーシュミットBf109の初期量産型であるE型でしたが、この機体は航続距離が約800km、戦闘行動範囲は600km程度しかなく、爆撃機の護衛を十分に果たせませんでした。
バトル・オブ・ブリテンがピークを迎えた1940(昭和15)年10月、第2教導航空団から新人のハンス=ヨアヒム・マルセイユが第52戦闘航空団に配属されました。マルセイユは翌年4月に異動したアフリカ戦線で158機撃墜の記録を残し、「北アフリカの星」と呼ばれるエースになります。このあたりから、第52戦闘航空団の“エース部隊伝説”が始まったといえるかもしれません。
1941(昭和16)6月、ドイツ軍が旧ソ連に進攻すると第52戦闘航空団は東部戦線に配備されます。部隊はウクライナ南部のクリミア半島、東部のドネツク州、ルハンシク州などに展開し、やがてドイツ軍の進撃に伴いウラル地方に進出しました。現在のウクライナ戦争の激戦地と重なるこれらの地域において、第52戦闘航空団の戦闘機パイロットたちは急速なペースで撃墜記録を積み重ねていきます。
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