120年の歴史に幕 「横須賀」の新造船ヤード撤退の“意味” 「石油タンカーに特化」もうそんな時代じゃない?

浦賀と追浜、2つの造船所の「その後」

 住友重機械工業は浦賀だけでなく、1959(昭和34)年に旧横須賀海軍工廠の第2船台などを取得して設置した横須賀工場や1971年に船舶の大型化に伴って開設した追浜造船所(現・横須賀造船所)が稼働しており、東京湾内における大型商船ヤードの一翼を担っていました。

 しかしオイルショック後の造船不況に突入すると、主力製品である大型タンカーを中心に新造船需要が激減し、大量キャンセルが続出。生産設備の整理が求められるようになります。手狭となっていた横須賀工場は閉鎖売却され、浦賀造船所は規模を縮小し艦艇・官公庁船にシフト。商船の建造は追浜造船所が中心となります。

 ただ日本経済そのものが低迷する時代を迎え、造船業も生産設備の増強とコスト競争力で優位に立つ中国や韓国に抜かれていきました。2000年代に起きた造船所再編の流れの中で、住友重機械工業は浦賀艦船工場を艦艇部門と共にIHI子会社のIHIMU(アイ・エイチ・アイマリンユナイテッド)横浜工場へ統合することを決め、護衛艦「たかなみ」の引き渡しをもって住重グループは浦賀での新造船建造から撤退しました。

 2003年に住友重機械マリンエンジニアリングが発足すると「中型タンカーNo.1」を掲げ、追浜の横須賀造船所で建造するアフラマックスタンカーへの差別化集中戦略を取りました。余分な在庫を抱えず、顧客からの要望に応じた効率的なモノづくりを行うトヨタ生産方式を導入してコスト削減を図り、建造船種を絞ることでより高品質な船を提供していくという方針は当たり、2007年に業績は好転します。

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練習船「日本丸」。住友浦賀造船所で建造された(深水千翔撮影)。

 しかし、2008年のリーマンショックが起きると、新造船を取り巻く事業環境は急速に悪化。受注隻数を制限し建造隻数も年3隻まで絞って体制の見直しを試みていたものの、船価の変動、鋼材や資機材価格の高騰、さらには中国や韓国の造船所もアフラマックスタンカーに参入して競争環境が悪化する中で、将来的に事業を継続することは困難な状況に追い込まれました。

 こうして住友重機械工業は長年にわたる横須賀での商船建造から撤退することになったのです。受注残は7隻で2026年1月まで順次引き渡しを行います。

【住友が持ってました】世界に4つしかない横須賀の“風格がスゴイ造船所”(写真)

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