日本の縮図? かつての「四国の玄関口」なぜこうも衰退したのか 「交通&造船の街」最初の50年はヨカッタ…【前編】
戦後に待望された「車両航送」が架橋のきっかけに
船舶を建造し工場を稼働させるには多くの人手と大小さまざまな資機材が必要であり、それだけ需要が生まれることになります。宇野には次々と工場や商店などが進出し、伸び悩んでいた宇高航路の旅客輸送量も大きく伸びていきました。1940(昭和15)年には宇野町と日比町が合併し玉野市が誕生しています。
とはいえ大戦後の不況や昭和恐慌、第一次上海事件に伴う日中貿易の停止など玉野における造船所の経営は順風満帆とはいかず、船舶改善助成施設による新造船建造やデンマークのバーマイスター・アンド・ウェイン(B&W)とライセンス契約を結んだディーゼル機関の生産、修繕船工事の増加などで業績が好転したのは1935年度以降でした。
三井造船の玉野造船所と国鉄の宇高航路は太平洋戦争でも大きな被害を受けませんでした。一時期、連合国は賠償のため玉野の工場設備を撤去する方針を示していましたが、従業員と玉野市民らは存続運動を展開し、1万2000人の嘆願署名を集めてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に提出。後に占領政策の転換もあって賠償指定は解除され、玉野市は製造業と物流の要としての地位を守ることができたのです。
一方で終戦後の宇高航路は輸送需要が急激に拡大し、宇野港が大混雑していました。既存の船隊ではさばききれず、車両甲板に旅客を乗せ、機帆船を借りるなどして、輸送を維持することになります。こうした中で客載車両渡船「紫雲丸」型3隻が播磨造船所で建造されました。
客載車両渡船を青函航路に続き宇高航路に投入する計画は戦前からあり、発注まで漕ぎつけていましたが、太平洋戦争の影響で中断していたという経緯があります。そのため宇高連絡船としては悲願の新造船でした。ただ、「紫雲丸」は1955年5月の沈没事故で修学旅行中の児童など168人が犠牲に。これを契機として、本四架橋に向けた機運が高まることになります。
1枚目の写真は児島駅ですね。
あと、11枚目は県営桟橋で、直島行きの桟橋ではありません。