日本の縮図? かつての「四国の玄関口」なぜこうも衰退したのか 「交通&造船の街」最初の50年はヨカッタ…【前編】
民間3社も航路参戦 その頃が“ピーク”だった
高度経済成長に突入し、日本の造船業の建造シェアが世界1位となった後、玉野造船所の船台からは貨物船からタンカー、護衛艦、トロール漁船など多種多様な船が進水し引き渡されていきました。
利用者が伸び続けていた宇高航路は、旅客と自動車の航送を行う民間フェリーも次々と就航し、1960年代には津国汽船、四国フェリー、国道フェリーの3社が揃いました。国鉄も船隊を近代化するため3000総トン級の新鋭船「伊予丸」型4隻と高速輸送を担うホバークラフトを投入。宇高連絡船は1974(昭和49)年に年間で旅客800万人を数え、1976年には29往復体制となります。
宇野―高松間は24時間ひっきりなしに船が行き交う航路となり、宇高航路の黄金期を迎えます。玉野市の人口も1976年に7万9870人を数えました。
しかし、ここがピークでした。三井造船をオイルショック後の造船不況が襲い、やがて瀬戸大橋が開通。玉野市は産業・交通の両面で地盤沈下を続けていくのです。
【了】
Writer: 深水千翔(海事ライター)
1988年生まれ。大学卒業後、防衛専門紙を経て日本海事新聞社の記者として造船所や舶用メーカー、防衛関連の取材を担当。現在はフリーランスの記者として活動中。
1枚目の写真は児島駅ですね。
あと、11枚目は県営桟橋で、直島行きの桟橋ではありません。