日本の縮図? かつての「四国の玄関口」なぜこうも衰退したのか 「交通&造船の街」最初の50年はヨカッタ…【前編】
本州における「四国への玄関口」だったのが、岡山県玉野市です。四国への航路は細り、造船を主体としていた産業も停滞しています。この地はいかにして「眠らない港」になり、そして沈んでいったのか。それは日本の縮図かもしれません。
小さくなった宇野駅に降り立つ
岡山県玉野市に所在するJR宇野駅は、1面2線のホームと駅舎で構成された終着駅です。岡山駅を起点とする宇野線の終点ではあるものの、特急「しおかぜ」や快速「マリンライナー」など多くの列車は、途中の茶屋町駅で瀬戸大橋線(本四備讃線)へ入っていくため、茶屋町―宇野間は普通列車によるローカル運用に徹しています。
この駅に、かつて特急「瀬戸」や「富士」、「鷲羽」といった優等列車が到着し、四国の高松港を結ぶ「宇高連絡船」の接続駅として賑わっていたとは想像がつかないでしょう。栄華を極めた街の主要産業である造船は停滞したままです。日本のなかでも重要な位置を占めたこの街はどう作られ、そして衰退していったのでしょうか。
玉野市は三井造船の造船所と本四航路の整備によって大きく発展した街です。交通の要所となる宇野港が近代的な港として竣工したのは1909(明治42)年のこと。日露戦争の戦費負担で増税が続き、新たな負担を嫌った岡山県議会が猛反対する中、檜垣直右知事がその権限をもって築港の認可を得たという経緯があります。
1910年には山陽鉄道の国有化に伴って計画を引き継いだ国(鉄道院)が宇野線を開業。これに合わせて宇高航路(宇野―高松)が開設され、山陽鉄道が構想していた本州と四国を結ぶ鉄道連絡ルートが完成することになります。
宇高連絡船は当初、客船のみの運航でしたが、1921年にはバージ(はしけ)による貨車航走が始まり、さらに荷役時間の短縮と効率化を図るため自走式の「第一宇高丸」と「第二宇高丸」が投入されるようになりました。
こうして瀬戸内海の物流の中心地となりつつあった宇野が、大きく飛躍するきっかけになったのが、三井物産造船部(現・三井E&S造船)の造船所設置です。1914年に始まった第一次世界大戦の影響で日本は好景気に沸いていたものの、軍需品を欧州に輸送する船舶が不足しており用船料が大きく跳ね上がっていました。
三井物産船舶部(現・商船三井)の船隊は約70隻でしたが、戦争が長引くにつれて船の不足と修繕スケジュールの混乱が深刻化しており、新造船にも修繕船にも対応できる造船所の新設が急務となります。
三井物産は調査の結果、海外線が長く広い敷地を取得でき、大型の船舶が停泊できる宇野湾周辺に目を付けて工場の建設に着手。1917年に先行して仮工場(通称、川村造船所)と三井物産造船部が発足し、1919年に玉工場が開場しました。
1枚目の写真は児島駅ですね。
あと、11枚目は県営桟橋で、直島行きの桟橋ではありません。