「巡洋戦艦」って何だったの? 出世魚みたいな変遷をたどった艦種の謎 最後は結局「戦艦」に
第1次大戦後 境目が曖昧になる
日英の動きは他の国にも波及し、バトル・クルーザーとしてドイツがマッケンセン級とヨルク代艦級、アメリカも第1次世界大戦中にレキシントン級の建造計画を開始します。
その最中、第1次世界大戦の1916(大正5)年にユトランド沖海戦が起こり、イギリスとドイツの主力艦が艦隊決戦を行いました。同海戦では戦艦の主砲に対して巡洋戦艦の装甲は脆弱である一方、戦艦は巡洋戦艦を追い詰めるには速力不足なのが明らかになりました。
この戦訓を受けて、本海戦以降に計画された戦艦は速力を向上させ、巡洋戦艦は装甲を強化していき、両艦種の境目はだんだんと曖昧になっていったのです。
日本でもその流れは顕著でした。1918(大正7)年に国会で承認された「八八艦隊」は、最新鋭の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を整備する計画です。この計画で進められた長門型戦艦、加賀型巡洋戦艦、天城型巡洋戦艦、紀伊型戦艦、十三号型巡洋戦艦を見ると、後になるほど艦の大きさ、主砲の口径、装甲、速力と上回るようになり、戦艦と巡洋戦艦の区別がつかなくなっていったのがわかります。
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