「巡洋戦艦」って何だったの? 出世魚みたいな変遷をたどった艦種の謎 最後は結局「戦艦」に
戦艦なのか巡洋艦なのか、その艦種名からはよくわからない「巡洋戦艦」という軍艦がかつて存在しました。このややこしい艦種がなぜ生まれ、その後どうなったのか、歴史をさかのぼって検証してみます。
イギリス海軍トップによって考え出される
旧日本海軍に戦艦「金剛」というフネがありました。太平洋戦争では「戦艦」として有名な同艦ですが、就役時は「巡洋戦艦」という別の艦種でした。巡洋戦艦と聞けば、その名前からして戦艦の一種と思われるかもしれませんが、そのルーツをたどれば歴史的に複雑な背景があります。
まず「戦艦」という呼称の始まりですが、産業革命後の19世紀中頃にさかのぼります。製鉄技術が向上し、大型化する艦載砲に対する防御策として、まず帆船時代の主力艦である「戦列艦」が、「装甲艦」に生まれ変わりました。この装甲艦は、大型化した主砲が旋回砲塔になり装甲を強化して近代的な「戦艦」へと発展します。
時を同じくして戦列艦より小型で俊足なフリゲートやコルベットは、喫水線に装甲を貼った「ベルティッド・クルーザー(装甲帯巡洋艦)」や、エンジンルームを装甲帯で覆った「プロテクティッド・クルーザー(防護巡洋艦)」に変化します。その後、これらの艦は高速を維持しつつ戦艦よりは薄い装甲を全体に帯びた「アーマード・クルーザー(装甲巡洋艦)」に変化します。
こうして生まれた装甲巡洋艦の発展型が「巡洋戦艦」でした。
巡洋戦艦はイギリス海軍で作戦指揮のトップだったジョン・フィッシャー第一海軍卿による装甲巡洋艦の改革の中で生まれました。フィッシャーは1906(明治39)年12月に竣工した有名な弩級戦艦「ドレッドノート」の生みの親として知られています。
かねてより「速力は最大の防御」を唱えるフィッシャーは、戦艦並みの大口径砲と高出力のエンジンを搭載する装甲巡洋艦を計画していました。こうして1908(明治41)年3月に竣工した装甲巡洋艦「インヴィンシブル」に、フィッシャーは「バトル・クルーザー」という新たな艦種名を与えます。
そしてフィッシャーはバトル・クルーザーに敵艦隊の強行偵察、味方艦隊の近接支援、敵艦隊の追跡、通商保護といった役割を想定いていました。
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