東京下町の隠れ名物?「ゴツい鉄橋」なぜ多い 100年前の「教訓」と「至上命題」から生まれた納得の理由とは

東京都江東区を流れる川には、「トラス橋」や「下路アーチ橋」が多く架けられています。このような無骨な鉄橋が造られたのはいずれも100年ほど昔ですが、ゴツい鉄橋が採用されたのには、複雑な経緯と納得の理由がありました。

後藤新平の「置き土産」

 東京を流れる隅田川の東側、いわゆる江東地区(墨田・江東両区)には、ゴツい鉄製の道橋が少なくありません。これは、大阪や広島、徳島など他の「水の都」では、あまり見られない光景といえるでしょう。

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プラット・トラス橋の東冨橋(深川孝行撮影)。

 江東区を一直線に横切る小名木(おなぎ)川を見ても、葛飾北斎の浮世絵『冨嶽三十六景 深川万年橋下』でも有名な萬年橋や、西深川橋、新高橋、新扇橋、小松橋という具合に軒を連ねます。

 しかも江東地区は特に「トラス橋」と「下路アーチ橋」が目につきます。どちらも鋼材をリベット鋲で接続し、幾何学的に組み上げた重厚感、無骨さがたまりません。

「トラス橋」は、鉄骨を三角形状に組み上げた上部構造(橋桁より上の構造部分)が特徴で、鉄道の鉄橋としてよく使われています。

「アーチ橋」は、橋梁の荷重を支える弓状のアーチ型部材を施す方式です。アーチ部材が上部構造となり、道路(橋桁)がその下に配置される形式を「下路アーチ橋」、逆に道路の下にアーチ部材がある形式を「上路アーチ橋」と呼びます。

 驚きは、江東地区の街中で見かけるトラス橋のほぼ全てが、「震災復興橋梁」だということです。

 101年前の大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し、旧東京市(現在の都心部分)の東半分は、大火事でほぼ焼失しました。

 そこで復興に立ち上がったのが、当時内務大臣で「大風呂敷」と呼ばれた後藤新平です。初代鉄道院総裁や南満州鉄道(満鉄)総裁などを歴任した実力者で、帝都復興院総裁に就任し、人類史上最大級の帝都復興計画をぶち上げます。

 パリやロンドンにも負けない、美しい超近代都市の建設を目指すもので、震災復興橋梁はその目玉の一つでした。

 震災から昭和6(1931)年までの短期間に、市内だけで実に400橋以上が架けられ、うち半数の約200橋を江東地区が占めました。隅田川の著名な永代橋や清洲橋、両国橋、吾妻橋などは、震災復興橋梁の代表格です。

 つまり、これらはすべて、ここ数年以内に100歳を迎える“超“長老で、「アラセン」(センチュリー=1世紀)でもあります。

【写真】浮世絵に描かれた「萬年橋」今は流麗な鉄橋に

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