東京下町の隠れ名物?「ゴツい鉄橋」なぜ多い 100年前の「教訓」と「至上命題」から生まれた納得の理由とは
なぜトラス橋がやたらと多いのか
建設費も両者は大差がないようですが、トラス橋の26橋に対しアーチ橋は6橋で、やはりトラス橋の方が圧倒的に多く採用されています。
これは、鉄道院、満鉄のトップだった後藤が、昔の部下を帝都復興のキーマンとして起用したからでは、ともいわれています。
トラス橋はすでに鉄道用橋梁として数多く建設され、さらに国内でも鉄道網が急成長した時期で、建設技術力アップや工期短縮など、脂の乗った時期でもありました。増え続ける需要にこたえるため、規格や設計もかなり統一され“量産化”が進んでいたのが「トラス橋」でした。
一方、震災復興橋梁は1日でも早く、1橋でも多く完成させるのが至上命題です。このため、別の鉄道橋用に製造していた鉄骨を急遽転用し、製造ライン、技術者・職人も全国から動員したからでは、と推測されます。
「鉄道屋」の自分たちにとって馴染みある「トラス橋」の選択は、実に合理的だったのでしょう。
大震災以前の東京の道橋の大半が木造で、数少ない鉄橋も橋桁はほぼ全部が木製でした。このため大火災で多くの橋が焼け落ちた結果、避難路を絶たれた多くの市民が焼け死んだり溺死したりしました。
同じ過ちを繰り返さぬよう、震災復興橋梁の建設に臨んだ後藤は、あくまでも鉄橋やコンクリート橋といった「永久橋」にこだわりました。しかし、予算や工期などで実際は妥協せざるを得ず、川幅の狭い場所は木製の橋梁がほとんどでした。
後藤のこだわりは、皮肉にも20年後に威力を発揮します。
1945(昭和20)年3月9日深夜から10日未明、アメリカ軍のB-29重爆撃機の大編隊が東京を焼夷弾で絨毯爆撃し、江東地区は再び灰燼と化しました。しかし幸いなことに、震災復興橋梁のうち鉄橋のほぼ全部が空襲に耐えて避難路となったため、多くの被災者の命が助かっています。
現在、江東地区に震災復興橋梁は20橋ほどしか残っていませんが、威風堂々たるゴツさは、いまだ健在です。
【了】
Writer: 深川孝行
1962年、東京生まれ。法政大学文学部地理学科卒業後、ビジネス雑誌などの各編集長を経てフリージャーナリストに。物流、電機・通信、防衛、旅行、ホテル、テーマパーク業界を得意とする。著書(共著含む)多数。日本大学で非常勤講師(国際法)の経験もある。
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