別名「戦車道路」 市民が憩う東京の緑道で、過去に何があったのか? グネグネ・ウネウネに“名残り”
「あれは戦車道路」と昔から住民が知っていたワケ
試行道路は道路といっても装軌車両のテスト走行用なので、舗装もなされず、左右に曲がりくねり、また尾根沿いのためアップダウンが多い「悪路」でした。こうした特徴は散策用の緑道となった現在でも見て取ることができます。
町田市史にある「第33回東京都農地委員会議案」の「旧軍用地管理換計画」付図によれば、いまの尾根緑道は予定区間の一部で、現在の町田市小山田の方まで道路が建設される計画だったようです。ただし、この史料は終戦直後のもので、陸軍が本土決戦「決号作戦」で整備しようと計画した作戦用道路と混同している可能性があります。
相模造兵廠で作られた戦車・車両はこの道路でテスト走行が実施されましたが、生産力の低さを反映してか、テストそのものは週に一度くらいしか行われなかったといいます。
また、テストの際には近隣住民に意を促すため事前にビラ配布・掲示などが行われたと伝えられています。このため、近隣住民は陸軍の試行道路の存在を知ることとなり、誰言うとなく、そこを「戦車道路」と呼ぶようになったのです。
戦車道路においてテストが行われたのは主に九七式中戦車チハでしたが、その他の機甲車両の試行も行われたとも伝えられています。おそらく、三式中戦車チヌや一式砲戦車、一式半装軌兵車、一式半装軌貨車などもここでテストが行われた可能性があります。
また、本土決戦に備え相模原造兵廠で試作されていたチト車(四式半装軌兵車を改装、75ミリ砲を搭載した対戦車自走砲)は、完成の暁には間違いなくこの道路でテストが行われたでしょう。
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