別名「戦車道路」 市民が憩う東京の緑道で、過去に何があったのか? グネグネ・ウネウネに“名残り”
米軍も自衛隊も“あまり使わなかった…”
やがて、1945(昭和20)年の終戦により陸軍が解隊され、日本が連合国の占領下に置かれます。そして、相模原造兵廠は米軍の管轄となり、付属施設である「戦車道路」も米軍管理下に置かれました。しかし米軍がこの道路を活用することはなく、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約の公布とともに在日米軍施設の一部となりました。
そして自衛隊が発足すると、道路は防衛庁の管理下に置かれることとなり、その後は防衛庁技術研究本部第四研究所(略称四研)が年に数回、戦車・車両の走行テストを行っていました。試作段階の61式戦車のテストなどもここで行われたと推測されます。
しかし、年に数回しか使われない「戦車道路」は近隣住民の通行の妨げとなっていたため、町田市への返還を求める声が強まっていきました。町田市側でも「戦車道路を歩く会」を作るなど、返還を強く求めるようになります。
こうして、1975(昭和50)年5月、国有財産審議会が町田市に管理委託の答申を行い、翌年、全長7.9kmのうちの3.5kmが市に移管。1978(昭和53)年には残りもすべて市に移管されました。
返還前から町田市はハイキングコースとして道路を活用する計画を立てていましたが、返還後、隣接する多摩市の多摩ニュータウンが建設されたことで、現在の尾根緑道として整備されることとなりました。日本陸軍の機甲戦力拡充に貢献した「戦車道路」も、今では曲線と高低差の多い特徴的な地形と、数か所に建てられた案内看板にのみ、かつての陸軍施設の名残りをとどめています。
【了】
Writer: 瀬戸利春(戦史研究家)
各種雑誌で近代戦史関連の記事を寄稿。著書に日露戦争の陸戦をテーマとした『日露激突 奉天大会戦』(学研)、太平洋戦争テーマの『太平洋島嶼戦』(作品社)がある。
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