国産旅客機、その歴史は戦前に 横浜からサイパン・パラオへ

横浜からサイパン・パラオへ就航した大日本航空機

 1938(昭和13)年、逓信省から外局として独立した航空局はこのようなスローガンを掲げています。

「翼強ければ国強し」

 1920~1930年代は「航空の黄金期」として世界中で民需が航空技術を牽引しており、ドイツのユンカースJu52、アメリカのダグラスDC-3など、空の歴史を変えた現代的旅客機が誕生。ようやく「空の旅」が普及しはじめます。

 日本もまた“航空大国・日本”を目指し、航空産業の振興に務めていました。ただ当時の日本は現在ほど豊かな国ではなく、航空機産業はほとんど全てを軍需が支えているのが実情。まだまだ航空機メーカーが独自に旅客機を開発し、商業的に運航できるほどの体力はありませんでした。

 しかし、元来は輸送機や爆撃機など軍用機として開発されながら民需に転換され、定期便の運行を実施した「旅客機」と呼ぶに足る実績を残した航空機も誕生しています。

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戦前、大日本航空の旅客機として運航された川西四発飛行艇(九七式飛行艇)。

 戦前の旅客機においてひときわユニークな存在なのが、1939(昭和14)年に初めて運航が開始された「川西四発飛行艇」です。本機は元々「九七式飛行艇」と呼ばれた水上を離着水する海軍機であり、水上機・飛行艇の名門として知られる川西航空機が開発しました。

 この川西四発飛行艇は、国策航空会社「大日本航空」の旅客機として、横浜の根岸を基点に当時は日本の委任統治領であったサイパンまで8時間、そしてサイパン経由でパラオへさらに7時間で結びました。

 運賃はサイパンまで片道235円、パラオまで375円でした。当時、東京~大阪間の超特急「つばめ」3等車が特急料金込みで8円だったことを考えると、庶民にはとても手がだせない高値の花です。しかし、日本機としては最大級の20トンを超える巨体にして、美しく優雅な川西四発飛行艇が横浜の沖合から飛び立つ様は、特に地元の子どもたちにとっては憧れの的だったといいます。

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コメント

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1件のコメント

  1. そしてこの横浜発着場は、今は根岸の市営プールとして営業しています。
    今年も子供を連れて行って参りましたが、当時の情景を知った時には、感激致しました。
    戦後はアメリカへ大型飛行艇を引き渡す日本からの最終発進地として。
    あの二式大艇もここの地を最後に引き渡されたという事です。
    今は子供達の歓声と近隣のコンビナート群ですが、そういう時代もあった、ということですね。