東京のローカル線「八高線」なぜ生まれたのか はるか新潟まで意識していた!? 期待されたその役割とは
街道沿いに敷設されることの多い鉄道路線の中で、八高線はユニークな存在です。首都圏の西端を南北に走るこのローカル線は、どういった経緯で誕生したのでしょうか。
変化の兆しはモノレール以外も?
全線開業後、地域有力者による八高線速成同盟会が作成した最終報告書には、八高線の意義を「単に八王子高崎の両市を連絡するのみならず、本州の中枢部を貫通し我国の所謂南門なる横浜と、北門なる新潟とを連結し交通界の重点を構成する」と記されています。
一般的に、戦前の輸出産業である養蚕や絹織物の中心地であった埼玉西部、群馬県と貿易港横浜を結ぶ路線として説明される八高線ですが、当時は新潟にも意識が向いていたというのは興味深い話です。
軍事路線として建設されたともいわれますが、大正末期の計画であることを踏まえると、埼玉西部、群馬と横浜、新潟を直結することが第一の目的であり、非常時の迂回路線としても活用できるというのは整備促進する理由付けの一つだったのでしょう。
もっとも、その後に訪れた太平洋戦争の末期は、都心が空襲を受けた場合に備え、いつでも十往復の貨物列車が八高線を通れるようにダイヤが準備されていました。また、『日本国有鉄道百年史』は、戦時中の南武鉄道(現・南武線)の買収について、草津の鉄鉱石や新潟に陸揚げした石炭を八高線、南武線経由で川崎に輸送する目的だったと記しています。
戦後も1999(平成11)年まで石灰石、セメントなどの貨物列車が運行されていました(JR貨物の第二種鉄道事業廃止は2005年)。1970年代後半には、高麗川駅は貨物取扱量が年間200万トンを超える全国屈指の貨物駅でした。都心の輸送力が逼迫(ひっぱく)する中、八高線の輸送力増強も検討されていたようです。
ただ、旅客輸送は期待された役割を果たせませんでした。全線単線で最高速度も低いため、八王子~高崎間は3時間を要し、上野経由で高崎線に乗った方が早かったからです。
その後、八高南線は1996(平成8)年に電化され、都内から非電化路線が消滅しました。そして前述のように高麗川で運行形態が分離され、八高南線と川越西線の直通運転を開始します。このほか、一部の列車は拝島から中央線に直通運転を行っていましたが、2022年のワンマン化に合わせて運行を終了しています。
北線は1993(平成5)年から1996(平成8)年にかけてキハ110系を投入し、国鉄時代のディーゼルカーを置き換えましたが、そのキハ110系も2025年度下期からディーゼルハイブリッド車両HB-E220系の投入で順次、退役予定です。
今後も首都圏のローカル線として、高崎付近、高麗川付近、八王子付近のローカル輸送を担い続けることでしょう。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
当時の軍部は艦砲射撃で鉄道が寸断されることを恐れて内陸線に積極的だったんですよね
「八高線は電化区間も単線だ。」の写真ですが、これは八高線ではないと思います(恐らく写真は西武拝島線)。