東京のローカル線「八高線」なぜ生まれたのか はるか新潟まで意識していた!? 期待されたその役割とは
街道沿いに敷設されることの多い鉄道路線の中で、八高線はユニークな存在です。首都圏の西端を南北に走るこのローカル線は、どういった経緯で誕生したのでしょうか。
南北から延伸を重ねた八高線
東京の八王子から埼玉の高麗川を経由して群馬の高崎まで結ぶJR八高線。東京都内にも青梅線、五日市線といったローカル線がありますが、あちらが中央線と一体的な運行をしているのに対し、八高線はいかにもなローカル線です。
しかも八高線は、高麗川を境に南北で性格が大きく異なります。八王子~高麗川間、いわゆる「八高南線」は電化され、川越線高麗川~川越間(いわゆる川越西線)と一体的に運行していますが、「八高北線」と呼ばれる高麗川~高崎間は非電化です。
南線の運行本数は朝ラッシュ1時間5本、日中毎時2本ですが、これに対して北線は朝ラッシュ1時間に3本、日中毎時1本だけで、正真正銘のローカル線です。首都圏の西端を縦断するこの路線、いったいどのような経緯で建設したのでしょうか。
八高線の整備構想は1896(明治29)年、埼玉県選出の議員が八王子~渋川間を結ぶ「武州鉄道」を出願したことに始まります。この計画は実現しませんでしたが、政府も路線の必要性を認め、1922(大正11)年4月に公布された改正鉄道敷設法の別表に、予定線第51号「東京府八王子より埼玉県飯能を経て群馬県高崎に至る鉄道」として記載されました。
工事は高崎、八王子の両端から始まりました。北線は1928(昭和3)年3月に着工し、1931(昭和6)年7月に高崎~児玉間、1933(昭和8)年に児玉~寄居間が開業。南線は1928(昭和3)年10月に着工し、1931(昭和6)年12月に八王子~東飯能間、1933(昭和8)年4月に東飯能~越生間、1934(昭和9)年3月に越生~小川町間が開業し、同年10月の小川町~寄居間開業で北線と南線が接続されました。
なお、寄居で接続する東武東上線は元々、「東上」の名前のとおり東京と上州(群馬)を結ぶ計画で、1923(大正11)年に小川町まで開通、小川町~寄居間も着工していましたが、国有鉄道が寄居~高崎間を建設することになり、1924(大正13)年に寄居以北の免許は取り消されています。
当時の軍部は艦砲射撃で鉄道が寸断されることを恐れて内陸線に積極的だったんですよね
「八高線は電化区間も単線だ。」の写真ですが、これは八高線ではないと思います(恐らく写真は西武拝島線)。