日本海軍で「最も活躍した戦艦」とは 最強の大和ではない!? 老艦なのに活躍できたワケは

旧日本海軍の戦艦「金剛」が1911年の今日、イギリスのバロー・イン・ファーネス造船所で起工しました。竣工時は巡洋戦艦でしたが、2度の大規模改修を受け戦艦に生まれ変わると、古参艦とは思えない戦いぶりを発揮します。

旧式な戦艦が活躍できたワケは

 ただ太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月時点で、「金剛」はすでに最古参の戦艦でした。速力こそ速かったものの、戦艦としての攻撃力や防御力は国内外の主力艦に見劣りしたのも事実です。「大和」や「長門」などの強力な戦艦は、連合艦隊司令長官が直卒する第一艦隊第一戦隊に配備され、柔軟な運用ができず、大戦後半まで温存される形となりました。

 一方「金剛」は、当初から最前線に投入されることになります。海戦の主役が戦艦から空母へ移った時代においても、速度性能を活かし、巡洋艦や空母と共に多くの作戦で運用されたことが「金剛」の活躍の幅を広げることになるのです。

 開戦直後1941(昭和16)年12月、「金剛」は「榛名」と南方へ進出。マレー沖海戦でイギリス艦隊と対峙した後、クリスマス島(イギリス領)への艦砲射撃などを行いました。その後、1942(昭和17)年4月のセイロン沖海戦、6月のミッドウェー海戦に参加し、さらに北方作戦の支援へと向かいます。

 10月にはガダルカナル島を巡る一連の戦いで、「榛名」と共に同島にあるアメリカ軍のヘンダーソン飛行場に対し、艦砲射撃を実施。大きな打撃を与えました。現地に展開していた陸軍の第17軍司令部は、この攻撃を「野砲千門に匹敵」すると評しています。

 1944(昭和19)年に入ると、6月のマリアナ沖海戦、10月にはレイテ沖海戦に参加します。レイテ沖海戦では、栗田健男中将が率いる主力部隊に配属され、「大和」「長門」「榛名」などと共に、フィリピンのレイテ島へ上陸しようとするアメリカ軍の迎撃へ向かいます。

「金剛」は、フィリピン東部のサマール島沖でアメリカの護衛空母群と会敵、砲撃を加えます。俊足を生かし、アメリカ軍の駆逐艦が放った魚雷を回避しつつ空母群を追い、集中砲火を浴びせました。この戦いで「金剛」は、護衛空母「ガンビア・ベイ」や護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」の撃沈に貢献したとされています。

 レイテ沖海戦後、損傷の修理が必要となった「金剛」は日本本土への帰投が決定、11月にブルネイを出港します。しかしその途上で、アメリカ軍の潜水艦「シーライオン」に発見されてしまいました。潜水艦は魚雷を発射、うち2本が「金剛」に命中します。

 艦齢が30年を超え、満身創痍となっていた老体に、魚雷は致命傷となりました。しばらく航行は可能でしたが、艦内の浸水は徐々にひどくなっていきます。「金剛」はとうとう転覆、台湾北西部の沖合で大爆発を起こし沈没しました。被雷から沈没まで2時間もありましたが、乗組員の退艦が遅れたため、約1300人が犠牲となる惨事となってしまいました。

 明治期に進水した老齢艦ながら、「金剛」は実に多くの海戦に参加しました。金剛型戦艦の4隻は、いずれも戦場で大きな活躍を見せましたが、その中でも大戦後半まで生き残った「金剛」の実績は群を抜いており、日本海軍で最も活躍した戦艦とも言われます。なお、その艦名は海上自衛隊のイージス艦「こんごう」に受け継がれています。

【画像】外観が全く違う!これが竣工時の戦艦「金剛」です

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