日本海軍で「最も活躍した戦艦」とは 最強の大和ではない!? 老艦なのに活躍できたワケは
旧日本海軍の戦艦「金剛」が1911年の今日、イギリスのバロー・イン・ファーネス造船所で起工しました。竣工時は巡洋戦艦でしたが、2度の大規模改修を受け戦艦に生まれ変わると、古参艦とは思えない戦いぶりを発揮します。
イギリスからはるばる日本へ
1911年(明治44)年の1月17日、旧日本海軍の戦艦「金剛」がイギリスにあるヴィッカース社のバロー・イン・ファーネス造船所で起工しました。同艦は明治期に進水した老齢艦ながら、第二次世界大戦でも数々の作戦に参加。約30ノットの速力を活かし、対地艦砲射撃や空母機動部隊の護衛、洋上決戦など、多くの戦いで活躍しました。
日本の戦艦の艦名は、「大和」や「武蔵」、「長門」など旧国名から付けられていますが、「金剛」は奈良県と大阪府の境に位置する金剛山にちなんだ艦名で、旧国名ではありません。元々、装甲巡洋艦をルーツとする巡洋戦艦だった「金剛」は、一等巡洋艦の山岳名に由来する艦名となっています。
ちなみに巡洋戦艦とは、簡単に言えば、戦艦と比べると防御力はやや劣るものの、速力は勝る大型の戦闘艦を指します。海戦では、敵の巡洋艦や駆逐艦を撃破する役割も期待されていました。ただ、次第に巡洋戦艦と戦艦の区別は曖昧になり、巡洋戦艦だった金剛型は戦艦に艦種を変更することになります。
日本は海軍を創設した明治以降、諸外国に発注した軍艦を輸入してきましたが、「金剛」はその最後の艦となります。建造は技術移転を前提としたもので、日本は技術者の派遣や設計図の入手などを要求し、ヴィッカース社はこれを承諾しました。
金剛型戦艦の2番艦「比叡」からは、建造に必要な資材をイギリスから輸入し国内で建造する、いわゆるノックダウン生産のような形となり、3番艦「榛名」と4番艦「霧島」では国産化率も徐々に向上していきます。一連の技術移転により、国産戦艦の建造能力は大きく向上し、最終的に史上最大最強の戦艦「大和」「武蔵」につながっていきます。
「金剛」は1913(大正2)年8月16日に竣工。南アフリカの喜望峰を回り、はるばる日本へ回航されてきました。基準排水量は2万6000トンあまり、世界で初めて35.6cm砲を8門採用するなど、当時は世界最大にして最強の巡洋戦艦でした。
竣工翌年に第1次世界大戦が勃発しますが、主戦場が欧州だったため「金剛」は大きな戦闘には参加せず、その威力を発揮するのは第2次世界大戦からになります。
戦間期、「金剛」は2度にわたる大規模改修を受けます。最大速力は約30ノット(約55km/h)へ、航続距離も9800海里(約1万8000km)へ引き上げられたほか、水中防御力の強化、対空火力の増設なども施され、空母機動部隊に随伴することが可能な高速戦艦として生まれ変わりました。
「金剛」の存在はアメリカ軍にとっても脅威で、後にアイオワ級戦艦が金剛型に対抗するために建造されることになります。
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